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深作欣二監督が『仁義なき戦い』ヒット後に父から「田舎に戻れ」と言われた理由

1973年に公開され、日本中で大ヒットを記録した映画『仁義なき戦い』。今もあのテーマ曲が脳裏に焼き付いていますが、あの『仁義なき戦い』シリーズを監督した深作欣二監督(2003年他界)は、どんな幼少期を過ごし、どんな両親に育てられたのでしょうか? 今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、物心ついた頃から15歳までを戦時下で過ごした深作監督が自らの言葉で語る、稀代の名監督を生み出した両親とのエピソードを紹介しています。

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『仁義なき戦い』深作欣二監督「木が樹液を流しケガしている。木に謝れ!戦時中の親父の言葉だ。「命は大切にしろ」と言いたかったのか」

73年から公開された「仁義なき戦い』シリーズが、私の日常の会話が広島の呉弁になるぐらい、強烈なインパクトだったことは前回の松方弘樹の時に触れた。長いインタビュー人生ではあるが、私が最初に著名入りで人物ノンフィクションを描いたのは深作欣二だった。「蒲田行進曲」の公開から間がない27歳の時だった。京都の監督の定宿でのインタビューだった。深作監督はヒットに恵まれない下積み時代が長かった。「今に見ていろ、コノヤローとか、成り上がってやるぜとか思えるのは優れたヤツだ。俺はヒット作を撮れないダメな監督だと思っていたよ」「俺はヤクザの親分の気持ちはわからん。でもな、チンピラの気持ちは痛いほどわかるんだ」そんな深作監督の言葉は、人物クローズアップを担うものとして、今も大きな指針の一つになっている。(根岸康雄)

子守歌がわりに家康の家訓を聞いて育った

実家は水戸市の郊外で、まあ地主の家だ。オフクロは士族の家から嫁に来ていたから、代々の士族の教えがしみついていたんだろう。水戸藩は徳川の御三家の一つだから、子守歌のように心に残っているのは折にふれ、オフクロから聞かされた徳川家康の家訓というやつだった。特に今も心に残るのは、

『人生の禍福は、あざなえる縄のごとし』という言葉だ。

不幸を嘆いていると、いつの間にか幸福となり、幸福を喜んでいると、また不幸になる、不幸と幸福は、より合わせた縄のように交互にやってくる、確かオフクロにはそう教えられた。

物心付く頃から本はよく読んでいた。地元の旧家で書庫もあったし、僕は上から数えて五番目だから、兄貴や姉のお下がりの小説本もあった。

「本ばかり読んでいるからお前は痩せていて、外に出て遊ばないとダメだ」と、オフクロにはよく言われていた。

外に出れば、近所のはなたれどもがいる。ヤツらのほうが木登りにしろ、魚を捕まえるのにしろ、僕よりうまい。僕が自慢できるのは学校の成績ぐらいで、戦前のあの時代、地主の家のせがれといえば、たいていは僕のようタイプだったんじゃないか。

逞しく育ってほしいという思いと同時に、人と仲良くできない人間はダメだというオフクロなりの考えがあったと思う。

「欣二、外で遊べ!!」家で本を読んでいると、オフクロに怒鳴られ外に放り出された。

近所の鼻たれどもも、木登りやウナギ捕りや、スイカや梨をかっぱらったり、一緒に遊んでくれた。だんだんみんなとの遊び方を覚えてくると、やっぱり外の遊びのほうが楽しい。

でもね、あの時代、鼻たれどもはみんな小作人の家の子供だ。子供たちの中でも地主の息子の僕だけ、どこか特別扱いされてしまう。そんな雰囲気を感じることが子供心にイヤだった。少年小説の中に出てくる小金持ちのこせがれは、金や特権意識を使って仲間に嫌がらせをするとか、威張り散らすとかロクなもんじゃなかった。

オレもはなたれガキと同じになりたい。子供の頃の僕の一番の望みは、近所のガキどもと垣根のない、本当の仲間になりたかったということだった。

映画監督になってからも、僕は決して威厳をもって上から教えるという指導者型の監督ではない。スタッフや俳優と一緒になって遊びのような感覚の中で、映画を作り上げていく。これも、子供の頃、近所のはなたれガキどもの中に溶け込み、やつらと本当の仲間でいたいという切実な思いが、僕の出発点になっていたからだと思う。

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「木がケガしてる、木に謝れ!」 親父はそう怒鳴った。

親父は若い頃に日露戦争の旅順要塞攻防戦に出兵して負傷し、金鵄勲章をもらっていた。東京帝国大農学部を出た農林技師で、農業に関しての学者だな。役人を辞めた後は家で米の品種改良に取り組んだり、庭に温室を作って、当時は貴重品種だったマスカットやメロンを栽培していた。それらは色鮮やかでたわわに実り、見事な出来ばえだった。

僕は親父が49歳の時の子で。物心ついた頃、親父は子供から見たらオジイサンだった。学者肌で物静かな親父だったが、一度だけ、こっぴどく叱られたことがあった。

「木がケガしてる、木に謝れ!」 親父はそう怒鳴った。

僕が小学3年の時、多分、誕生日のお祝いにという意味だったのだろう。

「この柿の木をおまえにやるから、好きにしろ」と、畑の脇の柿の木を指さして僕にくれた。もらった柿の木は、秋になると甘い実が成った。

「友達を呼んできて、食わしてもいいか」そう聞くと、

「お前の柿の木だ。実を誰に食べさせてもかまわん」

親父はそう言った。そこで近所のはなたれガキが十人ぐらい来たのか。すぐ柿の木に成った実はなくなった。

悪ガキの中には、家から空気銃を持ってきたヤツがいた。日中戦争ははじまっていた、戦時下だった。柿の実がなくなると、柿の木の幹にワラで作ったかかしの人形をぶらさげ、みんなでそれを空気銃で撃った。その日の夕方のことだった。

「ちょっとこい」と親父にいわれた。

「なんだ、これは?」

よく見ると、はずれた空気銃の弾が何発か柿の木の幹に食い込んで、そこから樹液が流れている。

「おまえな、樹液は人間でいえば血みたいなもんだ。木がケガをして血を流している。今日、柿の実をみんなで取って、おまえも食ったろ。その恩を忘れてこれは何だ、木に謝れ!!」

樹液が人間の血と同じだといわれたのを生々しく覚えている。当時、戦争に向かって世の中が殺伐としていく時代だった。

植物も生き物なんだ。命は大切にしろ。

親父は僕にそういいたかったのか。

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「百姓を殺してどうする?誰が米を作り畑を耕すんだ。百姓は堂々としていればいい」

旧制中学に入ると、太平洋戦争が激しくなり、勉強どころじゃなくなっていった。

当時は本土決戦は必ず来ると、教師から思い込まされていた。沖縄の中学生は玉砕したとも聞かされていた。

どうせ死ぬんだ…、そう思っていたから僕は家にあった日本刀で裏庭の竹を毎日、ためし切りしていた。

昭和20年8月15日の玉音放送の翌日、親父は村長だったから、敗戦の噂を聞き知った村の連中が、親父の考えを聞きたくて我が家に集まってきた。

「戦争に負けたって。こらあ、いったい、日本はどうなるんだ、オレたちはどうなる?!」

どうなるんだと村の衆に訊かれても、答えようがなかったろうけど、みんなの前で親父はこういっていたわな。

「戦国時代だって、いくさに負けて百姓を殺した例はない。百姓を殺したらどうする? 誰が米作ったり、食い物を作ったりするんだ。だから百姓は堂々としてればいい。田んぼを畑をちゃんと守っていればいいんだ」と。

それでも敗戦を知った村の衆は帰らない。そのうち夜になったら、それまで黙っていたオフクロがいきなり大きな声を上げた。

「みなさん、国が戦争に負けても、ご飯は食べなきゃならない、そろそろお帰り下さい」物がひっ迫していた当時、夕飯時は家に帰るのが常識だったとはいえ、戦争に負けて大変な時にメシの心配なんかして。女ってのはいったい何を考えてんだろうと、思ったもんだけど。

振り返ってみると、オフクロはあんな状態でも、家族にメシを食わせるという自分の役割を遂行したわけで、そこには生きていくぞという力強さがあった。

映画がヒット しても「作物の方が いいぞ」と言い続けた親父。

なにせ「最後の一兵まで戦え!」と大人に言われて、本土決戦の時は一人ぐらい敵をぶった切ろうと本気で練習をしたのだから、戦争に負けてから日がたつにつれ、拍子抜けした。それまで「死ね!」と言っていた教師たちに、「とにかく深作、これからの時代は勉強だ、勉強しろ!」といわれても、今さら何言ってんだと。

食い物のない時代だったから、家の土地で農作物を作ればいい、百姓になればいいと僕は思っていた。そのうちに水戸市内の盛り場にも次々と闇市ができて、バラックの映画館ができたんだ。

初めて見た映画が『春の序曲』というアメリカ映画だった。エレベーターの中で男と女がキスをする、これだけでたまげたね。当時は中学3年だった。田舎の中学生で戦争に負けるまで、外国映画を一度も見たことがなかったのだから。親父の財布から金をちょろまかしちゃ、学校を抜け出して映画館に入りびたった。

「上の学校、どうするんだ、農業の専門学校でも行くつもりか」と、親父に言われ、

「オレは映画の勉強をしたい」そう言ったら、親父は訳がわからずにキョトンとしてた。

「映画の勉強って何だ? 監督って何をやるんだ?」

そう聞かれても僕自身、わからなかった。

映画監督の勉強をするとか言って上京したが、極道息子の言うことなんか親父もオフクロも本気にしていなかったろう。どうせ諦めて田舎に戻ってくると、思っていたんじゃないか。

大学を出て東映に入って助監督から監督になっても、

「早く戻ってこい」親父はそれしか言わなかったな。そのうちに『仁義なき戦い』がヒットした。

「欣二、新聞を見ていると、ヤクザは流血事件ばかり起こしている。そんなヤクザの映画を撮ってどうするんだ?」

「親父さんさ、ヤクザもね、それなりに大変な人生を送っているんだよ」実家に戻った時に、そんな話をした覚えがある。オフクロには、

「子供の頃は優しい子だったのに、どうしてそんなおっかない映画ばかり撮るようになったんだ」なんて、言われた。

「もういいだろ、田舎に戻って農業をやれ」

「こう見えてオレも案外、頼りにされているんでね」

確か、親父とそんな話をしている時だった。

「欣二さ、農作物は手をかければかけるほど、応えてくれるものだ。だけど、映画はそういうわけにもいくまい」というようなことを言われた。だから、

「百姓のほうがいいぞ」親父はそういいたかったんだろうけど。

そこは大地に根付いた百姓と、表現というわけのわからない浮世商売との違いだ。だが、浮世商売でも物を作るということでは、親父の仕事とつながっていると、話の中でそんな実感を持ったものだ。

『軍旗はためく下で』という作品で、外国の映画賞をもらった時も、親父には報告しなかった。すると、オフクロが新聞を見て知ったんだろうな、電話口で怒りだした。

「どれだけ心配しているか、お前はわからないのか! 一度、賞状を持ってきて見せに来い!」オフクロは賞状と言っていた。

「眼になったらな、時間ができたら一度、水戸に戻るから」と言っているうちに、昭和49年に93歳で親父が亡くなった時も、その翌年オフクロが逝った時も、僕は京都で撮影に追われていて、親の死に目には会えなかった。

息子はどういうわけか、僕と同じ映像の道を選んだ。これから先、この世界に運が向いてくるとはあまり思えないが…、まあ好きなことをやるしかしょうがないな。これまで話してきたように僕がそうだったわけだから。

(ビッグコミックオリジナル1995年12月20日号掲載)

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image by: Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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