結婚後、うまくいく夫婦、いかない夫婦の違いはどこにあるのでしょうか? 今回の無料メルマガ『システマティックな「ま、いっか」家事術』では著者の真井花さんが、顔も知らない人と結婚することも多かった昔の結婚話を例にあげながら、現代の結婚生活、夫婦関係と照らし合わせて「うまくいく結婚の要諦」について紹介しています。
愛し合うとは
夫婦関係についてです。
父方のおばあちゃんにどうして祖父と結婚したのか尋ねたことがありました。すると
・結婚式に来たのがこの人だったから
でした。ごめん、待って。じゃあ違う人が来ていたらその人と結婚したの?と重ねて聞くと
・ああ、そうかもね 昔はそんなもんだったよ
でした( ̄∇ ̄;) 〇〇家の息子だということは知っていたけど、顔は見たことがなく二人いる息子のうちのどっちだろうと思っていたそうです。祖母の仲のイイ友人たちも、みんなそんな風だったそうで、いや、恋愛結婚前提の現代の感覚からすると、マジで信じられません。
ちなみに、祖父母は仲が良く、よく二人で旅行してはお土産を買ってきてくれました。喧嘩したり…そもそも声を荒げているのを見たことがありません。いや、顔も知らない相手と結婚して末永く仲良くできるってスゴいわ……。
もちろん祖父母の世代にも仲の悪い夫婦はいたでしょう。しかも、離婚が簡単な時代ではなかったので、表立って見えないだけでね。
でも、上手く行っている夫婦もやっぱりいたんですよ。今と同じようにね。
つまり
・相手の顔なんか知らなくてもOK
という極論に辿り着けるわけです( ̄∇ ̄;) いや、極論だけど。
それなら、逆に上手く行くために必要なものは何なのでしょうか?そして、それは結婚式当日に必要なものなのでしょうか?
祖父母はお互いの顔さえ知らずに結婚したわけです。おそらく
・どんな性格なのか
・どんな仕事なのか(ちょっとは知っていたんだろうか?)
・何が好きなのか
・何が嫌いなのか
・子供は何人欲しいのか
・どこに住むのか
・親族と同居するのか
といった、現在なら間違いなく聞くだろうなと思う事項全てについて、全く知らないかアヤフヤな情報しか知らなかったはずです。この状態で何故上手く行くんでしょうか?
ちなみに、別の親族から聞いた話ですが、結婚における
・ネガティブ事情の身体検査はする
ものだったそうです。はっきり言えば、
・ギャンブル・多額の借金・重篤な健康問題・異性関係
です。紹介人たちがこういう事項についてはかなり良く知っておりこの点で本人やその家族のゴマカシやウソが後でバレた場合、紹介人のメンツは丸つぶれであり、
・平謝り事案
だったそうです。フーム。ま、平謝りしたくらいじゃ済まされないけどね。謝るしかないから謝っているだけよね(*゚∀゚*)
閑話休題。なので、ネガティブ事情がないとなれば、あとのポジティブ事情(?)はそれほど重視されず、
・マトモなら、まあイイんじゃない的な
カンジで、そういう大事なことは
・結婚した後本人同士で話し合ってね
ってことだったんでしょう。てか、さすがにこれについて話し合わずに一緒には生活していけないからね。
結婚した今になって思うのは、このやり方が
・ずいぶん乱暴だなと思う反面
・まあ、これはこれでアリだな
ということです。結婚生活の中核であり、これは人づてなどでなく本人と直接話し合う必要があります。
しかも、
・相手と一緒に暮らす
という大前提で話し合うので、お互いに意見が食い違っても
・妥協せざるをえない
のではないでしょうか。
こういう重要な事項について予め確認せず、大枠でマトモならそれで良く、後は
・本人同士で話し合って妥協して決めろ
ということです。やっぱ乱暴ですね(*゚∀゚*) しかし、その乱暴さの中に
・結婚生活の真理の一端
が見える気がするのです。
顔も知らない相手を結婚して末永く幸せに暮らした祖母の話でしたね。
顔も知らないなんて、なんつー乱暴な結婚なんだと思う反面食い違いと誤解の塊の結婚生活において、予め全てをすりあわすことなど不可能なので、
・大まかに間違ってなきゃいいんじゃないの?的な
お気楽&乱暴さが意外と役に立つのかもしれないというお話でしたね。
日常生活をともにするので、それこそ箸の上げ下ろしからタオルのたたみ方まで一致していることの方が少ないくらいです。
そうした中で、これを解決する方法はたったひとつ。
・一緒にやっていくという前提で
・大事なことは直接話し合って
・妥協しあって決める
です。予めピッタリの相手を探し当てることではありません。むしろピッタリじゃない相手を馴染ませ合うんです。
結婚している方は痛烈に分かると思いますが、結婚生活継続の要諦は
・まさにこれに尽きる
といえます。
他者との生活、つまり結婚生活とは
・相違と誤解の嵐
です。なんとかなるだろうという見込みで誰しも結婚するわけですが、その見込みを遥かに凌駕して、微に入り細に亘って食い違っちゃうモンですよね。だから、その全てを予め確認しすり合わせることなどできませんし、仮にやってみてもどこかでは必ず相違点があるでしょうし異常に長い時間が必要でしょう。
そんなことをやっているうちに、生物学的に厳然として存在する適齢期を徒過してしまうんです。現代より医学や産婦人科の技術が劣っていた祖父母の時代には、切実な期限が設定されていたでしょう。
しかし、祖父母の時代も今も、結婚に相違と誤解があるのは一緒です。
早晩その違いがトラブルとなって現れるわけです。ここで、食い違いに注目してしまうと
・もう解り合えない
という気分になってしまいます。そりゃそーよね。
ところが、それがそうはならなかったのが祖父母の時代や仲良くいく家庭なのです。これはつまり、注目しているものの違いなのではないかと思います。すなわち、彼らは夫婦間の相違ではなく
・一緒にやっていくという前提
に注目しているのだと思うんです。この注目点の違いはこう↓なりますよね。
・こんなに合わないんだから、一緒にやっていけない
・一緒にやっていくんだから、合わないところをなんとかしなきゃ
大違いの結論ですね。
こんなに合わないんだから~がそのまますぐに離婚に結びつくとは限りませんが、仮面夫婦的な醒めた関係への道をたどっていくことになるでしょう。
いずれに注目するのかで結果はだいぶ異なり、また注目するものがいずれなのかによってその後の会話の内容や方向性は自ずと決まってくるでしょう。
その上で
・妥協し合って決める
んです。まあ、話し合って10対0でどっちかの意見になることはそんなにないですよね。あるいはここは夫の意見が採用されたけどこっちでは妻の意見が通ったみたいな。そのヘンの折り合いはお互いに探り合って慣れて・・・馴染んでいくんでしょう。
この妥協も、一緒にやっていくという前提を持っているかどうかでだいぶ違ってくるでしょう。この前提があれば、なんとか妥協点を探ろうとするでしょうが、相違に注目してしまえばそもそも妥協自体が不要に感じられます。
数組の仲の良い夫婦に聞くと全ての夫婦が
・問題が起きたら話せばいい
と言うんですよ。それは問題という相違ではなく、夫婦として一緒にやっていくという前提に注目しているからです。逆に、仲の悪い夫婦は、これまた見事に話さないんですよね。おそらくその違いは、夫婦間の相違の数ではなく、夫婦が注目するものの違いだと思います。
・一緒にやっていくという前提で
・大事なことは直接話し合って
・妥協しあって決める
やはり、これに尽きるのではないでしょうか。
・愛し合うとは話し合うこと
至言です。
一緒にいることでもエッチすることでもないんですよ。一緒にいられなくてもレスでも、仲がいいふたりがいること、逆に一緒に暮らしながら仮面だったり、エッチしていてもイマイチ仲良くないふたりがいることは、愛の本質が生活共同やセックスではないことを示しています。
夫婦でやっていくには、とにかく話し合うこと。それを止めないこと。止めたときにはもう一緒にはいられなくなるということ。肝に銘じておきましょう。
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