今やすっかり日常用語として受けいられた感がある「ライフハック」という言葉。しかしこの外来語について完璧に理解した上で使っているかと問われれば、多くの方が否と答えざるを得ないのも事実ではないでしょうか。そんな「ライフハック」について正面からの論考に取り組んでいるのは、Evernote活用術等の著書を多く持つ文筆家の倉下忠憲さん。倉下さんは自身のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で今回、この言葉の誕生から現在までを辿りつつ、「ライフハック」の本質に迫ることを試みています。
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ライフハックとは何か
本稿では、ライフハックと何かについての論考を展開する。かつてライフハックとは何だったのか、現状はそれは何であるのか、そしてライフハックはどうあるべきなのかの検討を進めることになるだろう。
目指したいのは、ライフハックを一時的なブームを作り上げ、その後終息していったようなノウハウの流行として位置づけるのではなく、長い期間を通して私たちの生活にありありと脈づいている技術と知識、そして創意工夫の時代的な発露だと捉え直すことである。いわばライフハックに普遍性を見いだそうという試みだ。
正直なところ、この試みがうまくいくかはわからない。直感的に、私がそのような議論が可能であると感じているだけである。その直感にまずは素直に乗ってみることにしょう。
人間的な生の営み
人間を定義するやり方はいくつもあるが(*)、「道具を作り、使うもの」(ホモ・ファーベル)はその中でも有名だろう。
とは言え、簡単な道具であれば人間以外でも用いる動物がいるらしい。かといって、そうした動物と人間が完全に共通しているかというと、そういうわけでもないだろう。違いがあるはずだ。では、その違いとは何かと言えば、それこそが「ライフハック」ではないかと私は思う。
人が人として生きていく上で、欠かせない技術。もっと言えば、何かを為そうと意志するときに自然と要請される技術。それらは、「ライフハック」という言葉が登場する前からも存在していたし、(よほど不幸なことが起きない限りは)これからも存在し続けるだろう。
それぞれの時代において、注目される技術や分野は違っているのかもしれない。呼称される名前も異なるかもしれない。しかし、それらの中には、根本的・根源的な共通性があるのではないか。そんな風に私は感じるのである。
二層の共通性
そこにある共通性は、おそらく二つの層をなす。表層的な層と深層的な層だ。
表層的な層は、技術や工夫に見られるパターンのことで、こちらはウィトゲンシュタインが言う「家族的類似性」が近いだろう。同一のものから派生しているというのではなく、近しい要素を持つ集合がそこにあるので何か「似ている感じ」がする、というわけだ。
たとえば、技法Aと技法Bが何か近しいことをしていて、技法Bと技法Cもまた近しいことをしている。そのとき、技法A・B・Cは大きなグループにくくれるが、しかしながら同一の原理からそれらが算出されているわけではない、といったことだ。
この視点は、実際に存在する技法を分類していく上では役立つだろうが、表層的なものでしかない。それとは違い、もう一段深いレベルの共通性も想定できる。
その共通性とは、「人が、技術・知識・工夫を用いて、事にあたる」というより大きなレベルでの事象の発露である。
知的生産の技術・仕事術・ライフハックと、さまざまな分野があり、そこでは多数の技術・知識・工夫が用いられている。それらの工夫の中には、前述したような表層的な共通点を持つものもあるだろう。しかし、もっと深く潜ってみれば、どのような分野であれ、人が漫然と事を行うのではなく、技術・知識・工夫を用いて現実の出来事に対処しようとしている姿勢や志のレベルにおいても共通点があるはずなのだ。
私がこの論考でまなざしたいのはそうした姿勢やマインドセットである。
今の私は、それに与える適切な名前を持たない。よって、目下一番新しい名称である「ライフハック」を論考の起点して話を進めていく。
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言葉の原点から
まずはまっすぐに本丸を目指そう。「ライフハックとは何か」。この言葉を、原点を含めて検討していきたい。参照するのは堀正岳氏の『ライフハック大全 プリンシプルズ』だ。本書の冒頭では欧米でのLifeHackの起こりと、その日本的な受容の歴史が考察されている。さらに本書では、著者自身によるライフハック観も提示されているが、それは後ほど参照することになるだろう。
ともかくまずは、言葉の歴史である。
言うまでもなくライフハックは純粋な日本語ではない。LifeとHackという英単語の合成語であり、2006年頃、アメリカのITアーリーアダプターの間でまずは話題になった。
2006年頃と言えば、個人向けのITがいよいよ発達の兆しを見せ始めた時代である。スマートフォンなどの新しいガジェットやそこで使えるツールなどが登場し、それと並行するように新しい仕事のスタイルも生まれてきた。当然、そこでは新しい「接面」が求められる。ツールや仕事と人間が「どう付き合うのか」という接面だ。
そこにぴたりとはまりこんだのが「ライフハック」だったと言える。
一方で、事の進行はそこまで単純なものでもなかったことがうかがえる。一番最初に米国で注目されたライフハックは、ある種「泥臭い」ものであった。生産性の高いプログラマーは、ちまちまと自作のスクリプトを作り込んでいたり、小さな習慣を繰り返すことで時間を作っていたりと、究極的に言えば「当たり前のこと」を粛々とやっている人たちであったのだ。
一方で、ある時期からライフハックは「鮮やかな」ものとして受け取られていた。何か物事をスマートに、クレバーに解決するための方法、といったニュアンスだ。そこには小さな改善を積み重ねるような泥臭さはなく、むしろ(パソコンの)ハッカーが自由気ままにパソコンを操作するような、そんなニュアンスが感じられる。なんの苦労もなく、欲する成果を得るためのノウハウ。どこからか、そうしたニュアンスが入り込んできたのかもしれない。
日本でも、『ライフハックス鮮やかな仕事術─やる気と時間を生み出すアイディア』という本が2006年の12月に出版されており、米国の受容と同じような流れを感じる。
とは言え、ここで重要なのは、アメリカにおけるライフハックがセルフヘルプ(自助)の流れの中にあったという点である。このセルフヘルプは、公的な援助に頼らないという現代の日本的な意味ではなく、むしろ大企業が提供する枠組みの中で限定された行動に甘んじるのではなく、むしろそうした枠組みに不都合や不具合があったときに、自分なりのやり方を持ってその問題を解決していこう、という姿勢のことである。
そこには、ある種の反骨精神やDIYシップとでも呼べる精神性があった。それぞれの人が、自分の人生において発生する問題を、自分なりに創意工夫と試行錯誤で解決していくという流れの中に、ライフハックは位置していたわけだ。
その点は、たとえばGTDというライフハックの代名詞とも呼べるノウハウが、その黎明期においてさまざまなアレンジ・カスタマイズを生み出していたことが証左であろう。ノウハウの提案者の言う通りにするのではなく、個々の実践者において最適なものを探求するマインドセットがそこにはあったわけだ。
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日本におけるライフハック
では、日本はどうだろうか。
まず日本においては、ライフハックは「仕事術」の一分野、あるいはその発展系として受け止められた。そのことは、ビジネス雑誌がこぞってこの言葉を取り上げたことからもうかがい知れる。
「仕事術」ということは、仕事における能率性の向上こそが主眼であることを意味する。すでにこの時点で、「ライフハック」のライフが指し示す範囲からは相当に範囲が小さくなっていることがわかるだろう。
一方で、日本では「仕事人間」という言葉が示す通り、人生の大半を仕事に「捧げる」という価値観は昔から存在していた。その点を加味すれば、仕事術とライフハックが結びついたこともそう不自然な現象ではないかもしれない。
ともかくとして、日本でのライフハックのブームは、基本的に「仕事」の局面における生産性や能率を最大化させる手法としてはじまった。GTDの解説書であるデビット・アレンの著作も『ストレスフリーの仕事術─仕事と人生をコントロールする52の法則』が先であり、『はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』はその後に出ている。主眼はやはり「仕事」だったわけだ。
日本組織における自助の邪魔さ
とは言え、ここで問題が立ち上がる。日本における「仕事」と「自助」との相性の悪さだ。
アメリカという国の文化において「自助」がどのように受容されているかはさておくとして、日本という国の、特に組織の中での「自助」はあまり歓迎されるものではない。組織の規定から逸脱しようとする人間は足並みを乱すものとして毛嫌いされるし、実際に冷遇されることも少なくない。
また、ライフハック=自助によって、自分ひとりが生産性・効率性を拡大しても、好ましい結果が訪れるとは限らない。
自分の持ち分をさっさと仕上げても一人だけ先に退社できる(あるいは心地よく退社できる)わけではないし、効率的に仕事をすると、むしろ「サボっている」扱いされることすらある。そこまでひどい状況ではなくても、仕事がさっさと片づくと、手が空いていると勘違いされて、次から次へと仕事が回されることは珍しくない。
一作業あたりの効率はあがっても、全体として見たときに、忙しい状態は変わらない、あるいは悪化してしまう、ということすら起こりうる。
フリーランスで言えば、作業の効率性向上は基本的にメリットしか生まないわけだが、企業で働く人(しかもお堅く、古い企業で働く人)では、そこまで単純な図式ができあがるわけではない。
ツール利用の不自由さ
また、ライフハックのツール部門で先陣を切ったEvernoteも、すこぶる便利なツールであることは間違いないが、日本での実際は難しいものがあった。簡単に言えば、使えない人たちがたくさんいたのだ。
新しい端末(スマートフォン)の登場によって、さまざまな場所で同じように仕事ができることが可能となったことは間違いない。それは新しい仕事のスタイルの登場でもある。そうした状況にあって、「クラウドツール」という未開拓の分野の先鞭をつけたことはたしかな功績だろう。
一方で、そうしたツールたちが日本企業の中で自由に使えたかというと、なかなか厳しかったのが実際だろう。あるいは「今でも厳しい」という答えが返ってくるかもしれない。
ここでもまた、その恩恵を最大限にあびたのは、「すでに新しいスタイルで仕事をしている」人たちであり、そうでない人たちにとっては、ライフハックは絵に描いた餅であり、「あこがれ」として額縁の中で飾られるものでしかなかったことがうかがえる。
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誰のためのライフハック?
そうした環境においては、元来ライフハックが内包していた反骨精神は、骨抜きになってしまうことは想像に難くない。そうすると、残るのは「効率性・生産性」を追い求める姿勢だけである。
そのような姿勢を持つ働き人は、当然のように企業にとって一番都合の良い人間である。この点は、おそらく日本だけの話ではなく、先行していたアメリカでも同種の現象が起きていたのだろう。
● The Rise and Fall of Getting Things Done | The New Yorker
結局、ライフハック的なことをしていてもぜんぜん変わらない。そのような理解の先にライフハックブームの終焉があったに違いない。ライフハックは、謳ったはずの成果をもたらさなかったのだ。それはそれで一つの、そしてまっとうな終わりの訪れであるように思う。
しかしながら、私は思うのだ。本当にライフハックはそんな成果を謳ったのだろうか、と。
今こそライフハック
ライフハックは本当に死亡してしまったのだろうか。まったくの役立たずとして灰と成り果ててしまったのだろうか。私はそうは思わない。
むしろ出発点となったライフハックが持っていた姿勢は、現代においてもいまだ有用性をおびえているばかりか、現代でこそその必要性が再び輝き始めているのではないか。
最新のテクノロジーやツールに乗っかる、ということではなく、泥臭い方法を背景に持ちながらも、反骨精神や不屈のマインドセットを持った問題解決への姿勢。一見すると、鮮やかには見えないものの、自分なりの人生を生きるための試行錯誤や創意工夫。そうしたものが、より「活きる」時代になってきているのではないだろうか。
もちろん一つには、ようやく日本社会でもITの必要性が認められてきたという時代の変化がある。今ではZoomやLINEは当たり前のツールになっているし、その他のクラウドツールも徐々にであれ利用可能性が増えてきている。いわば、時代が(かつての)ライフハッカーに追いついてきたのだ。
しかし、それはツール普及の話だけではない。新しい仕事のやり方や生き方もまた少しずつその根を伸ばしつつあるのではないか。新しい接面が生まれつつある、ということだ。
そういう接面に対応するための「ノウハウ」。それを今こそ再構築すべきであろう。
(次回に続く)
※ 本記事は有料メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2022年1月31日号の一部抜粋です。続きは2月14日号に掲載されています。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。
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