MAG2 NEWS MENU

「くわばらくわばら」は菅原道真に由来する?知られざる意外な関係

学問の神様として知られ、いまだに多くの受験生たちが彼を祀る天満宮へと足を運ぶ菅原道真ですが、実は学問とは無縁のさまざまな話が語られる人物でもあります。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』の著者である早見さんは今回、菅原道真をピックアップ。彼と地震の関係や、意外な言葉の由来などを教えてくれています。

この記事の著者・早見俊さんのメルマガ

初月¥0で読む

菅原道真 地震と雷、火事

平安時代を代表する学者というと菅原道真が挙げられます。学問の神様、現代でも道真を祀る天満宮を合格祈願に参拝し、御守りを持ち歩く受験生は珍しくありません。そんな天神様も地震と無縁ではありませんでした。

道真が世に出るきっかけになったのは、官吏登用試験である方略試に合格したことでした。難関で知られた試験です。道真が受験したのは、貞観十二年(870)、このコラムでも紹介した貞観大地震が起きた翌年で、その影響でしょうか。「地震について論ぜよ」と出題されました。道真は古代中国、後漢時代の学者張衡(ちょうこう)が発明した地道儀(ちどうぎ)を引き合いに出して回答しました。

地道儀とは世界初と言われる地震計です。西暦132年に制作され、構造は文章ではわかりにくいので、ご興味のある読者はグーグル等で検索してください。地震が起きた方角がわかるそうです。

道真は儒教、道教、仏教における地震の考察を回答として記しました。儒教では為政者への戒め、道教では陸を支える十五匹の大亀が交代することにより発生する、そして仏教では大地の下に水があり、水の下に風がある、この風が地震を起こす、と考えていたそうです。

道真の回答からしますと、地震が為政者の不徳の成せる業という考え方は儒教からきているようですね。

日本がお手本にしていた中国の地震に対する考え方がわかります。道真が試験に合格後も大きな地震は続きました。才覚によって出世し、朝廷の要職に就いた道真は、遣唐使を廃止しました。ひょっとしたら地震に対する中国の考察に疑問を抱いたからなのかもしれませんね。

遣唐使廃止により、唐の影響を受けない日本独自の文化が生まれます。いわゆる国風文化ですね。代表的なものにかな文字、和歌、寝殿造りなどが挙げられます。平城京の遺跡を再現したミュージアムに行きますと当時は唐の影響下にあった為、役所も唐風の造りになっています。机と椅子があるのです。それが、建造物が寝殿造りになり、机と椅子は建物の中からなくなりました。建物の中に入る際には、靴を脱ぐようになります。これは今日までも続いていますね。

この記事の著者・早見俊さんのメルマガ

初月¥0で読む

道真は讃岐守に任官し、讃岐(香川県)に赴任します。赴任して1年半程が経過した、仁和三年(887)7月30日(新暦8月22日)の午後4時ごろ、五畿七道諸国にわたる巨大地震が起きました。推定マグニチュード8~8.5の大震災でした。

貞観大地震の18年後です。阪神淡路大震災の16年後に東日本大震災が起き、日本人の記憶に阪神淡路大震災がまざまざと蘇ったように、仁和地震が発生した時も、多くの人々が貞観大地震を思い出したことでしょう。

平安京は数多の建物が倒壊、余震も続きました。摂津は津波被害が甚大で、数えきれないほどの溺死者が出ました。近畿と瀬戸内海を隔てた四国も大きな被害があり、道真は讃岐守として復興に当たったことでしょう。方略試の試験で地震について回答した道真ですから、的確な避難、救済活動を行ったと思われます。

菅原道真と言えば異例の出世と左遷の憂き目に遭い、怨霊となったことで有名です。

道真は右大臣にまで昇りますが、それは宇多天皇の信頼を得たからでした。この頃、藤原氏系の皇子が不在であった為、宇多天皇は藤原氏の影響を受けない政治を行います。とは言え、藤原氏は朝廷で重きを成していました。道真は藤原氏の顔色を窺うことなく、意見を述べることで宇多天皇の信頼を得たのでした。

しかし、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が即位して4年後、藤原氏の策略によって失脚しました。道真が娘婿の斉世(ときよ)親王を皇位につけようとして醍醐天皇の廃位を企んだ、とされたのです。

濡れ衣もいいところだったのですが、宇多天皇の後ろ盾を失った道真は延喜元年(901)2月、大宰府に左遷されました。左遷されただけでなく、任地へ赴く費用は自腹、従者も俸給も与えられず、政務に関わることも禁止されてしまいました。

大宰府内の浄妙院で謹慎の日々を送ります。失意の日々で詠んだ、「東風(こち)吹かばにほひをよこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」は有名ですね。この歌の為、道真を祀る天満宮は梅の花が名物です。

この記事の著者・早見俊さんのメルマガ

初月¥0で読む

大宰府赴任の二年後、道真は無念のまま亡くなりました。そして、道真は怨霊と成りました。

道真が没して五年後の延喜八年(908)、道真の弟子であったのに道真失脚に加担した藤原菅根が落雷で死亡します。更に翌年、道真を大宰府に追いやった藤原時平が39歳の若さで急死してしまいました。

この年から数年、洪水、干ばつ、長雨、疫病の蔓延が続き、道真の祟りだと噂されました。延喜二十三年(923)には醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳の若さで亡くなります。保明は時平の妹が産んだ子でした。

醍醐天皇は道真の祟りだと思い、道真を大宰府に左遷した勅書を破棄、右大臣に戻して正二位を贈りました。それでも祟りは終わらず、2年後、保明親王の息子慶頼王が5歳で夭逝してしまいました。

まだまだ祟りは止まず、その5年後、延長八年(930)御所の清涼殿が落雷で全焼、醍醐天皇は衝撃の余り退位し、間もなく崩御しました。

醍醐天皇の崩御後、道真の祟りは鎮まったかに思えましたが、天慶五年(942)、平安京に住む巫女、多治比文子に道真の霊が憑依し、自分を祀るようお告げをしました。

この頃、関東では平将門、瀬戸内海では藤原純友が相次いで反乱を起こしましたから、朝廷はこれ以上の世の乱れ、道真の怨霊を恐れ、道真を祀ります。

それが北野天満宮です。

道真は学問に優れていましたから、恐ろしい雷神ではなく詩文の神様として尊崇されるようになります。鎌倉時代以降には歌合せ、連歌会が催されるようになり、文芸や学問の上達を願って訪れる参拝者が増えてゆきます。

道真は怨霊から学問の神様となり、太宰天満宮、大阪天満宮、湯島天神、亀戸天神をはじめ、約1万2,000社もの神社で祀られるようになりました。

また、都で落雷騒ぎが起きた時、道真の所領であった、「桑原」には一切、雷が落ちなかったそうです。この為、雷が発生すると人々は、「桑原、桑原」と唱えるようになります。

菅原道真は地震と雷、火事に関わり、とても怖い親父になったのでした。

この記事の著者・早見俊さんのメルマガ

初月¥0で読む

(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年7月8日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)

image by: Shutterstock.com

早見俊この著者の記事一覧

1961年岐阜県岐阜市に生まれる。法政大学経営学部卒。会社員の頃から小説を執筆、2007年より文筆業に専念し時代小説を中心に著作は二百冊を超える。歴史時代家集団、「操觚の会」に所属。「居眠り同心影御用」(二見時代小説文庫)「佃島用心棒日誌」(角川文庫)で第六回歴史時代作家クラブシリーズ賞受賞、「うつけ世に立つ 岐阜信長譜」(徳間書店)が第23回中山義秀文学賞の最終候補となる。現代物にも活動の幅を広げ、「覆面刑事貫太郎」(実業之日本社文庫)「労働Gメン草薙満」(徳間文庫)「D6犯罪予防捜査チーム」(光文社文庫)を上梓。ビジネス本も手がけ、「人生!逆転図鑑」(秀和システム)を2020年11月に刊行。 日本文藝家協会評議員、歴史時代作家集団 操弧の会 副長、三浦誠衛流居合道四段。 「このミステリーがすごい」(宝島社)に、ミステリー中毒の時代小説家と名乗って投票している。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料お試し登録はこちらから  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」 』

【著者】 早見俊 【月額】 ¥440/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎週 金曜日 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け