江戸幕府の開祖でありながら、登場する物語ではしばしば憎々しい人物として描かれる徳川家康。「権力を手にできたのは運が良かっただけ」とされることも少なくありませんが、果たしてその評価は妥当なものなのでしょうか。今回のメルマガ『ねずさんのひとりごとメールマガジン』では作家で国史研究家でもある小名木善行さんが、家康が成し遂げた偉業と彼が終生忘れることがなかった2つの思いを紹介。さらに家康に対する悪意ある偏見への反論を試みています。
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家康と日本文化
世界の大金持ちとして有名なビル・ゲイツさんの総資産は8兆円なのだそうです。たいしたものです。ところが日本には、その100倍の資産を持つ大金持ちがいました。それが徳川家康です。総資産は、いまのお金に換算してなんと800兆円。押しも押されもせぬ世界一の大金持ちでした。
しかも当時の日本は鉄砲大国です。世界の鉄砲のおよそ半数が日本にあるとされました。そしてその日本の3分の1の領土を自らの直轄地にしていたのが家康です。つまり家康は、当時の世界にあって、世界最大の大金持ちであり、同時に世界最強の軍事力を持つ人物であったのです。
ところがその家康、江戸に入城して10年後には、明日をもしれない超貧乏生活になっていました。とにかく当時の江戸は、広大な沼地であり、潮が満ちれば海になる、そんな土地でした。農作物も育たず、家屋敷も建てられない。しかも大雨が降れば、決まって洪水に襲われる。それら対策に莫大な予算を使わざるを得なかった家康は、辛抱すること10年、ついに財政も破綻状態に至るのです。
一方で、土地の改良に伴って江戸の人口も増えてくる。すると施政者としての責任も大きくなります。家康の偉いところは、そんな事態に至っても、決してあきらめなかったことです。常に民衆が少しでも豊かに安全に安心して暮らせる世にしていくことを最大の使命とし続けたのです。
そんな家康ですから、ついに天が動きます。佐渡に新たな金山が発見されるのです。埋蔵量は、当時の世にあって最大のものでした。そしてここから家康の天下人としての大きな働きが始まりました。家康はすでに59歳になっていました。
いまある東京の町並みも、関東の大型河川の流路も、すべて家康がその基礎を築いたものです。それだけの大事業を成し遂げた家康には、とても大切な思いが二つありました。
ひとつは、家康がまだ19歳のときのことです。今川義元の人質として育った家康は、このとき松平家の当主として居城である三河に帰りました。岡崎城で出迎えた三河の家臣たちは、誰もがみんな極貧生活でボロボロの姿でした。殿のお帰りを、晴れ着で出迎えたくても、その服がなかったのです。そんな彼らが、真っ黒に日焼けして皺だらけになった顔をくしゃくしゃにして、家康の帰りを喜んでくれました。
「この人たちを絶対に護り抜く」
それは若い家康にとって、生涯の誓いとなりました。
いまひとつは、初婚の相手の瀬名姫のことです。近年の小説等ではこの瀬名姫を、あたかもとんでもない女性であるかのように描くものが多いです。そうではないのです。瀬名姫と結婚したのは家康が16歳のときのことでした。瀬名はとても美しく聡明で、立ち振舞もみやびな最高の女性でした。家康は夢中で本気で真剣に瀬名を愛しました。詳細は本編でお話しますが、不幸にも家康は、その最愛の妻を処刑しなければならなくなったのです。
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家康が天下に名だたる大大名となったとき、家康のもとには全国のお殿様から、最高の美女たちが献上されてきました。戦国のならいです。そうすることで一族の娘が家康の子を産めば、徳川家と親戚になることができ、一族の安全が保障されるからです。
けれど家康は、それら美女には一切目もくれませんでした。そうは言っても子をなさなければ徳川の家が滅んでしまいます。ですから側室は置きました。けれどその側室としてお手つきになるのは、決まって家康の地元の農家の、あまり器量よしとはいえない女性たちでした。
「殿はなぜ、殿様たちから送られてくる美女にお手をおつけにならないのですか?」と聴いた人がいます。
家康の答えです。「そのようなことをすれば、死んだ瀬名が悲しむ」
家康の生涯で正妻は瀬名姫一人だけです。瀬名が死んだあとの家康は、生涯正妻を持とうとしませんでした。
晩年の家康の言葉です。
「あのとき築山殿を、女なのだから尼にして逃してやればよかった。命まで奪うことはなかった」
家康の晩年の住処は、駿府です。そこは瀬名姫が生まれ育った土地でした。
戦後、家康を描く小説や映画、歴史書などは数多く存在します。大河ドラマにもなっています。けれどその多くが家康を、
- ひたすら権力を夢見たヒヒ爺いであった
- たまたま周囲(たとえば秀頼など)が能無しだった
- 運が強かった
といった切り口でしか語っていないのは、たいへん残念なことに思います。
もちろんそれぞれは、その人の見方ですから、否定はしませんが、「ヒヒ爺い」なら、当時の大名は、みんな独立した存在です。それに家臣を抱えているのです。そんな耄碌爺いに付いていくようなお人好しの大名などまずいません。
「周囲(たとえば豊臣秀頼など)が能無しだったから天下を取れた」という論も、おかしな論です。世の中に完璧な人などいません。だからこそ組織があり、優秀な官僚が殿様を支えるのです。「運が強かった」は、もちろんそうでしょうけれど、ではどうして運が良かったのかが説明されていません。
どのような家中にあっても、大将に慈しみの心があり、部下思いで、人を大切にしてくれ、自分たちの生活をきちんと支えるためにあらゆる努力を払ってくれている大将のところへは、優秀な人材が集まります。そしてそれ以上に、「殿のためなら、俺は命もいらねえ」といった感情も生まれてくるものです。つまり、そう思わせるだけの人間としての魅力が、家康にあった、ということです。
そしてその魅力の根源は、瀬名姫のことや、向かえてくれた家臣たちの涙を、ずっとずっと大切にし、それを自分への重石にしていることを、家康の周囲の誰もが知っていた、ということではないかと思います。
日本をかっこよく!!
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