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Aichi, Japan, 30/8/2015 - Kiyosu Castle is a Japanese castle located in Kiyosu. It is noted for its association with the rise to power of the Sengoku period warlord, Oda Nobunaga.

人災による圧死。信長と大坂本願寺を襲った悲惨な事故とは?

日本のメディアでも大きく取り上げられた韓国の圧死事故。この痛ましい事故で日本人の犠牲者も出てしまいました。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、戦国時代の人災による圧死事故を紹介し、その恐ろしさを再度認識させてくれています。

信長と圧死

先日、韓国のソウルで大変に悲惨な事故が起きました。150人以上の圧死者を数えたそうです。

日本は古来から数多の地震が発生し、数えきれない程の圧死者を出してきました。今回は地震という天災以外の圧死、つまり、人の行動によって多数の圧死者を出したエピソードを記します。

戦国時代、大坂本願寺という強大な教団が存在しました。戦国時代の歴史に興味のある読者ならご存じ、織田信長と文字通り血で血を洗う合戦を繰り広げた教団で、俗に、「石山十一年戦争」と呼ばれています。当時、日本人の二人に一人が本願寺の門徒、いわゆる一向宗徒だったとか。

一向宗の総本山であった大坂本願寺は木津川、大和川を天然の堀とし、いくつもの寺内町を抱え、数多の伽藍、物見櫓を備えた寺と言うよりは巨大な城塞でした。

その本願寺の法主顕如は一向宗徒から生き仏のように崇められていました。顕如の法話がある日は本願寺の門前は群集で溢れ返ります。今か今かと開門を待つ一向宗徒たちは、門が開くと我先に境内に雪崩れ込みました。ある日、一人が転倒、それに足を取られ、多くの者が折り重なり、圧死者が出たのです。

すると、噂が流れました。

法主さまの法話を聞く為に圧死した者は極楽往生を遂げる……この噂により、その後、顕如が法話をする時にはわざと転ぶ者が続出したそうです。暴挙と言えるこの行為を顕如は禁じたのでした。

その大坂本願寺と正面から戦ったのは信長でした。信長は本願寺が所在する大坂に目をつけました。瀬戸内海を天然の運河とし、遠くは大陸に繋がる要地と見なし、居城を築こうとしたのです。信長は顕如に希望の地を代替地にするという条件で大坂からの退去を求めました。

顕如は拒否し、信長との全面対決に突入します。仏敵信長との合戦で死ねば極楽往生ができ、逃げれば地獄に堕ちる、そう信じた一向宗徒は命を惜しまずに織田勢と戦い、信長の親族、有力武将を討ち取るなど一時は信長を窮地に陥れました。

信長は一向宗徒に対し、手段を選ばない苛烈な戦を仕掛けました。一向宗徒の拠点、伊勢長嶋では2万人、越前では3万人を虐殺し、大坂本願寺は日数をかけて兵糧攻めとし、ついに大坂から退去させます。

そんな信長にも圧死事故のエピソードがあります。

信長は相撲が大好きでした。ある日、安土の城下で相撲を催したところ、大勢の見物人が集まりました。その日の取組が終わり、見物人が帰る際、転倒した者をきっかけに大勢の圧死者が出ます。

次回の相撲興行までに信長は担当奉行に死人が出ないよう対策を立てさせました。相撲興行が近づき、信長は担当奉行を呼び、対策を質します。担当奉行は道幅を広げ、退場の順番を決める、と答えました。

至極まっとうな考えです。

しかし、信長はそれでは不十分だと評価します。そしてこうせよと命じました。その日、最も面白い取り組みの後、つまらない催しをやれ、そうすれば帰る者と残る者に自然と分かれる、というものです。当日、優勝した力士が信長から弓を貰い、踊ったそうです。これが弓取り式の始まり、だとか。

信長は人と違う発想をすることを物語るエピソードでもありますね。

いずれにしても、人災による圧死は防がねばなりません。ソウルの事故を教訓としたいですね。亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

image by:AndyLai / Shutterstock.com

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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