年末といえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の討入は行われた理由については多くの説がありますが、なかでも面白い解釈を見つけたのは作家でユーチューバーの顔も持つ、ねずさんこと小名木善行さん。小名木さんは自身のメルマガ『ねずさんのひとりごとメールマガジン』の中で堺屋太一さんの説について詳しく語っています。
この記事の著者・小名木善行さんのメルマガ
赤穂浪士と就職戦
堺屋太一さんは、すきな作家です。
たぶん、氏のご著書は全部読んでいると思うのですが、その堺屋さんの著書に、忠臣蔵を描いた『峠の群像』があります。
たいへんにおもしろい本なのですが、この本の中で堺屋氏は、赤穂浪士の討入は、彼らにとっての就職活動であったのだという説をとられていました。
この本が出たのは昭和57年のことで、世はまさに高度経済の真っ只中。
そんな中にあっても、大手や中堅企業の倒産は多々あったわけで、そうした企業から放り出されたサラリーマンたちが、再就職に苦労し、また再就職できてもそれぞれの企業が持つ社風と、新たに就職した企業との社風の違いなどに苦労し、それならと、元倒産した会社の社員たちが集まって起業し、夢やぶれてその会社も倒産に至るといったケースは、世の中に多々あったわけです。
そうした当時の空気の中で、忠臣蔵の大石内蔵助以下四十七士たちだって、再就職のために命がけで働き、最後は夢やぶれて散っていったのだとする堺屋太一氏の小説は、多くのサラリーマンたちの共感を得たものとなりました。
ただ同時に、赤穂の浪士たちが「再就職のために」討入事件を起こしたという解釈は、当時、赤穂事件は「主君の仇討ち」という見解しかなかった時代にあって、「同じストーリーであっても、解釈次第ではまったく違う解釈が成り立ちうる」ということを示した本として、まさに世の目を覚まさせる衝撃があったわけです。
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加えて堺屋太一氏の「再就職のため」という解釈は、実は、素晴らしく的を得た解釈でもあったのです。
詳しくは令和4年12月12日のねずブロ「忠臣蔵の真実」で述べていますので、そちらをご参照いただければ良いのですが、簡単に要約すると、
そもそもの事の発端は、京の都から天皇の名代として江戸に下向してくる勅使が、天皇の名代でありながら将軍の下座に置かれるという室町以来の矛盾にあります。
山鹿流を学び、皇室尊崇の念の強い赤穂浅野家の家中は、勅使下向の接待役としてその準備をするにあたり、この矛盾を「殿は放置なさるおつもりか」と、するどく指摘し、浅野内匠頭を追い詰めるわけです。
一度目はなんとか家中を抑えた浅野内匠頭も、二度目の接待役では、もはや沸いている家中声に、もちろん自らも席次をおかしいと思っていますから、ついに自ら行動を起こすことになります。
それが松の廊下の刃傷事件です。
この頃の播州浅野家は、将軍お目見え以下の身分とされていました。
お目見えと、お目見え以下の違いは、将軍と直接会うことができるかどうかの違いです。
当時の播州浅野家の家格では、将軍と直接会って話をすることができない。
そこで、頭の固い老中たちに、事の矛盾を指摘して改善を求めるために、またあわよくば取り調べに際して将軍と直接拝謁できれば、そこで堂々と、将軍は勅使に対して下座であるべきとの主張を繰り広げようと、意図して起こした事件が松の廊下の事件であったわけです。
けれど幕府も、そんな浅野家の気持ちは察していて、浅野内匠頭をその日のうちに切腹にしてしまう。
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こうなると、浅野の家中というのは、「正論で殿を追い詰め、切腹にまで追いやったろくでもない連中」ということになってしまいます。
これでは、家がお取り潰しになったあと、日本中、どこも雇ってくれる家中などありません。
江戸詰めの家臣たちのわがままな主張によって、殿が死罪となり、藩もお取り潰しになるのです。
赤穂にいる家臣たちにとっては、いい迷惑です。
ですから、今後のことを決める赤穂での評定も、揉めにもめます。
そしてかくなるうえは、主君の主張を、それは浅野の家中の主張として、世の中に明確に示さなければならない。
そのためには、室町以来の伝統の承継者である吉良殿を討つほかはない、という結論に達するわけです。
この場合、討入をした志士たちは、おそらくは全員が死罪となります。
なにしろ時は、将軍綱吉の治世なのです。
討入事件を起こして死罪にならないことはありえない。
けれど、主君の思いを晴らした元藩士たちということになれば、元播州赤穂藩士たちは、日本全国の大名たちから、引く手あまたになる。
そしてこれは目論見通りに、そのとおりになっています。
そういう意味で、堺屋太一氏の『峠の群像』は、実に良いところを突いた小説であったわけです。
ちなみに堺屋さんは、その名の通り大阪商人の家系で、大阪商人は赤穂事件のときの天野屋利兵衛の義理固さを身上としたという歴史があります。
天野屋利兵衛そのものの実在については、京都の呉服商の綿屋善右衛門がモデルであったのではないかなど諸説ありますが、いずれにしても、利に敏いはずの商人が、武士なみの義理堅さを身上としたことが、その後の大阪商人の気風となっていったことは事実であろうかと思います。
日本をかっこよく!!
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