記者やビジネスマンなどに愛用されているノートパソコンといえば、すぐに思い出すのがパナソニックの「レッツノート」シリーズ。そんなレッツノートに最近「2in1タイプ」というユニークなものが出たことをご存知でしょうか? 画面が360度も回転し、パソコンなのにタブレットのように使えるこの商品の開発秘話を紹介するのは、神戸大学大学院教授で日本マーケティング学会理事の栗木契さん。栗木さんは今回、この画期的なパソコンを開発した佐々木仰氏への取材から見えてきた革新性と、この事例から見える「イノベーション」を起こすことの可能性と手法について紹介しています。
プロフィール:栗木契(くりき・けい)
神戸大学大学院経営学研究科教授。1966年、米・フィラデルフィア生まれ。97年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。博士(商学)。2012年より神戸大学大学院経営学研究科教授。専門はマーケティング戦略。著書に『明日は、ビジョンで拓かれる』『マーケティング・リフレーミング』(ともに共編著)、『マーケティング・コンセプトを問い直す』などがある。
オブザベーション(観察法)はイノベーションを、なぜ、どのように促進するか
佐々木仰氏は、「デザイン思考」で知られるIDEOと多くの共同経験があり、現在は株式会社インフィールドデザインを主宰する。佐々木氏は数々の企業の開発プロジェクトをサポートするなかで、オブザベーション(観察法)という手法に手応えを感じている。佐々木氏は、なぜ、どのようにオブザベーションを用いているか。事例を通じてその実践を振り返るなかで,この問題を考えていく。
レッツノートの2in1タイプの開発事例
パナソニックのレッツノートは、高性能の小型軽量のノートパソコンである。落下による衝撃などのダメージに強く、長時間屋外でも使えるマシンとして、ビジネス・ユースなどを中心に高い評価を得ている。
このレッツノートのラインナップのなかに「2in1タイプ」というユニークなスタイルのノートパソコンがある。2in1タイプは、画面が360度回転し、パソコンでありながらタブレットのようにも使える。
2in1タイプの開発は、どのように行われたか。この開発にあたっては、佐々木氏がユーザー調査からデザイン開発までのプロセスにかかわっていた。
開発チームの当事者意識の弱さが問題ではないか
佐々木氏が、この開発プロジェクトに参加するにあたって抱いていた問題意識は、パナソニックに限らず、日本の大企業では、開発プロジェクトのメンバーの当事者意識が低いということだった(佐々木仰「『ムダ』なことからはじめてみよう:イノベーションはブラブラ歩きから」、『冷凍』第95巻第1107号、2020年)。こうしたメンバーのなかには、開発にかかわる製品やサービスを - 消費財や、個人向けのものであるにもかかわらず - 自分自身は日常的に使っていないという者が少なくなかったりするのである。
そのために、開発にあたって、「今までになかった新機軸を取り入れるように」と指示を受けても、「何からどう手をつけていいかわからない」という問題が生じたりする。そもそも自身で使った経験のない製品やサービスである。開発メンバーが、ユーザーの求めていることを、既存のスペックの範囲を越えて理解することは難しい。何かのはずみで、今までになかった新機軸のアイデアが出ても、その評価を開発メンバーが確信をもって行うことは困難である。佐々木氏は、開発チームの当事者意識の弱さが、企業からユーザーにとって画期的な提案を行う活力を削いでいるのではないかと考えるようになっていった。
オブザベーションという方法
佐々木氏はレッツノートの開発プロジェクトに参加し、「自分ごとの壁」を乗り越えるための取り組みとしてオブザベーションを行うことを提案した。従前より佐々木氏はオブザベーションの活用を重視してきた。
このときに行われたオブザベーションの第1は、ユーザーの利用状況を、観察を通じて知ることだった。モバイルでノートパソコンを使っているビジネスパーソン数人に協力をあおぎ、その実態を知るべく、一定期間の活動を日記形式で記録してもらった。また、開発メンバーがオフィスなどを訪問して、実際の仕事ぶりを観察させてもらうフィールドワークも実施した。こうした観察から開発メンバーは、「ああ、こういうことだったのか」「こんな工夫をしていたのか」といった気づきを得ることができたという。
開発チームは、なぜ、宇和島市をめざしたか
そして佐々木氏たちはオブザベーションの第2として、開発メンバーが自らユーザーとなる機会をつくった。開発メンバーがノートパソコンをモバイルで使い、その体験を観察の対象とするのである。そのために開発メンバーは出張の業務命令を受けることになった。目的地は愛媛県宇和島市の宿泊施設である。そして現地到着後に、開発プロジェクトをめぐる合宿が行われた。
レッツノートの開発拠点は関西にある。そこから四国の宇和島へと移動するなかでノートパソコンを自身で使用するというミッションが、開発メンバーには与えられた。自らを観察対象とするオブザベーションである。移動手段としては、メンバーごとに高速バス、鉄道、飛行機など、異なる経路が割り当てられた。そして道中でモバイルワークを行い、その体験を出張報告にまとめて、合宿にのぞむ。このミッションのもとで開発メンバーは、たとえば、車中の絶え間ない微振動のなかでのモバイルワークは、目への負担が思っていた以上に大きい、などの体験を味わった。
こうしてたどり着いた宇和島市の宿泊施設では、開発メンバーが各人の体験を持ち寄り、レッツノートの新しいモデルのあり方を検討する合宿が行われた。自らの体験から、モバイルパソコンの価値を、ユーザーの立場で語ることができるようになったメンバーたちは雄弁だった。合宿では時間を忘れて語り合った。そして、たどりついた、「手書きのメモ帳やノートのような、融通無碍で多少手荒でも自在に使えるノートパソコン」というアイデアが、2in1タイプに結実していく。
開発の前提を越える「新しい価値」
この出張合宿が、開発メンバーにとって新鮮だったのは、彼らがモバイルワークを日常的に行っていなかったからである。なぜなら、社外へのパソコンの持ち出しには、面倒な手続きが必要だった。わずらわしい申請に時間を費やすよりも、ラボで仕事を片付ける方が効率的なこともあり、開発メンバーはモバイルワークに消極的になっていた。
佐々木氏がそこに持ち込んだオブザベーションという方法は、すでに開発の前提となっていた枠組みの外にある新しい価値に、メンバーが目を転じ、行動をはじめる契機となった。
それまでのレッツノートでは、たとえば落下による衝撃に強い、バッテリーの稼働時間が長いといった、すでに確立された便益の理解のもとで新モデルの開発を行っていた。そこで新たにノートパソコンをタブレットのようにも使えるようにすることに、どのような価値があるのか。こうした未知の領域の問題の判断には、既存の枠組みは使えず、この限界を乗り越えるためには、開発メンバーひとり一人がモバイルパソコンとしてのレッツノートがどうあるべきかを、自分ごととして理解することがひとつの支えとなった。
オブザベーションを開発に用いる最大の意義とは?
今までにない製品やサービスの便益や価値を打ち出していくバリュー・イノベーションに挑むには、それまでの製品やサービスの成功を支えてきた枠組みを超える不確実性の海に飛び込む必要がある。イノベーションとは、市場での確実な成功が保証されている活動を行うことではない。
開発メンバーは、この不確実性に対する不信感や不安、周囲への説得力の弱さをいかに乗り越えればよいのだろうか。リクルートで数々の情報誌を創刊してきた、くらたまなぶ氏がいうように、開発者とユーザーという「する側」と「される側」の関係を脱し、開発者が感情移入によってユーザーと一体化したかのような状態を生み出すことが、そこでのひとつの解決策となりそうだ(『リクルート「創刊男」の大ヒット発想術』日経ビジネスジン文庫、2006年、pp.193-197)。
なぜなら、この開発者にユーザーが憑依したかのような状態が生まれることで、「主体は活動過程に巻き込まれている一方で、いまだ主体としては現れていない」という、中動態に通じる状態が生まれる。そして、この主体と観察対象が一体化した感覚は、事前の合理性や目的の外にある新規性の高い発見を受け入れていくことを容易にする。(石井淳蔵『進化するブランド:オートポイエーシスと中動態の世界』碩学社、2022年、pp.220-223、pp. 319-322、pp. 329-333)
オブザベーションは、開発者にユーザーとの一体感をもたらす。佐々木氏は、この開発者のマインドの醸成を重要視してオブザベーションを行ってきた。
オブザベーションには、開発に役立つさまざまなデータや情報の入手という役割もある。しかし、オブザベーションを開発に用いる最大の意義は、そこで入手したデータや情報を手際よく分析し、見栄えのよいレポートをつくることではなく、開発者にユーザーとの一体感を生み出すことにあるではないか。このような問題意識のもとで佐々木氏は、オブザベーションを活用し、従前の枠組みを超えた製品やサービスの開発をサポートしている。
image by: パナソニック公式ホームページ