子どもの頃はなんてことなかった「わからない」と表明することが、あるときからなぜか言いづらくなって知っているふりをするか黙っているようになってしまう。「“そんなことも知らないの?”と思われたくない」や「“わからない”とは言いたくない」気持ちはどこからくるものなのでしょう。メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で、「知的生産」に役立つ考え方やノウハウについて探究を続ける文筆家の倉下忠憲さんは、「プライド」が関係していると考えます。そして、プライドに邪魔されていては人として停滞することになると伝えています。
プライドを手放す
今回は、プライドを手放すことについて考えます。
プライド
日本において「プライドが高い」という表現は、あまり褒め言葉としては使われません。“取っつきにくさ”や“傲慢さ”と近しい位置に感じられる表現です。ちなみに、7つの大罪の一つである傲慢もその英訳はprideです。戒められる対象であるのでしょう。
誇り・自尊心・自負などと書けば、少しはそのネガティブさが和らぎますが、ではそれらの言葉にどんな違いがあるのかはわかりません。だから言葉からではなく、もっと身近な話から考えてみましょう。
傷つくことへの恐れ
たとえば、「いや、ちょっとわかりません」や「それについては知りません」と答えられない状態があります。あるいは「すいません。私のミスです」と言えない状態もあります。そういうことを口にしてしまうことがどうしてもはばかれる。そんな状態です。
もちろん、占い師がお客さんに「私の将来を占ってください」と言われたときに「いや、ちょっとわかりません」と答えるのは問題があるでしょうが、そうでなければ何かを知らないこと、答えられないことが大きな問題になることは少ないでしょう。
にもかかわらず、素直にその答えが口に出せない状態は、きっと「プライド」が邪魔しているのでしょう。別の言い方をすれば、何かが傷つくのを恐れているのです。それは体面なのかもしれませんし、権威なのかもしれません。どんな言葉で表現してもいいのですが、ともかく何かしら情報的(あるいは記号的)なものが傷つくのを恐れています。
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動きの束縛
そういう状態は、非常に窮屈です。「動き」が取れないのです。無知を認めなければ有知には至れませんし、失敗を認められなければ修正も反省もできません。つまり、その時点の状態に居続けることになるわけです。そこでは変化が拒絶されています。
たしかにそうしたことを口にすると、ちょっとした恥くらいはかくかもしれません。顔が赤くなるくらいのことは起こるでしょう。でも、その「やや恥」状態と、変化を拒絶して同じ状態に居続ける状態を天秤にかけたらどうでしょうか。どちらがより好ましい(あるいはまだマシ)な状態と言えるでしょうか。
物事をより深く経験するために「身銭を切る」ことが大切だと言われますが、おそらくそうした「ちょっとした恥をかく」経験も同じようなカテゴリーとしてまとめられるでしょう。部分的に「損」に思えるようなことが発生したとしても、より大きな視点で見れば「得」なことにつながる扉が開いている、というような。
さいごに
「ちょっとした恥をかく」を受け入れることは、プライドを手放すことだと言えます。もっと言えば、自分の体面や権威よりも重要なものがあるのだとしっかり認識することです。
そして、逆説的なようですが、そうした認識にこそ真の「プライド」的なものが宿ってくるのでしょう。ただし、そうしたものをきつく握りしめるのではなく、遠くの方にある目標として見据えるという違いはありそうですが。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2023年6月26日号より一部抜粋)
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