「私はあなたが好きです」は告白ですが、「私をあなたは好きです」は、思い上がりもしくは洗脳です。言葉の並びは一緒でも、間に入る「助詞」が違うだけで、意味がまったく変わってしまうのが日本語の悩ましいところ。今回のメルマガ『前田安正の「マジ文アカデミー」』では、朝日新聞の校閲センター長を長く務め、ライティングセミナーを主宰する前田さんが、語順と助詞によって意味がどう変わるか具体例をあげて解説。日本語では主語の「私」を省略できてしまうため、語順を変えてもわかりにくさが残るケースがあると説明しています。
「語順で文章はわかりやすくなる」の謎
誤解のないように文章を書くには、語順が大切だという考えも多いと思います。たとえば
- あした私は海外旅行でイタリアに出かけます。
という一文は、
- 私はあしたイタリアに海外旅行で出かけます。
- 海外旅行で私はあしたイタリアに出かけます。
- あしたイタリアに海外旅行で私は出かけます。
と語順を変えても、何とか通じるのです。これは、「海外旅行で」の「で」、「イタリアに」の「に」という格助詞が文の内容を規定するからです。この場合、「で」が手段・方法を表す格助詞、「に」が場所を指定する格助詞です。これによって、「私」が「出かける」方法と場所を明確にしているからです。
英語は語順、日本語は助詞
『助詞・助動詞の辞典』(森田良行著・東京堂出版)によると、英語では
- A introduces B to C.
と書けば、語順から「AがBをCに紹介する」となります。これを「BがAをCに紹介する」という文にするには、
- B introduces A to C.
という具合に、AとBの語順を変えなくてはなりません。一方、日本語の文では
- AがBをCに紹介する。
のように、格助詞「が」「を」「に」を入れ替えれば、
- AがBにCを紹介する。
- AをBがCに紹介する。
- AをBにCが紹介する。
- AにBがCを紹介する。
- AにBをCが紹介する。
というように、語順を変えずに違う内容の文が計6通り書けるのです。
格助詞「が」「を」「に」は、A、B、Cがそれぞれどのような関係であるかを示し、どういう意味をもたらすかを明らかにする役割があるからです。他の要因があるにせよ、ごく単純に言えば、英語では語順、日本語では助詞が文の内容を決めるのです。
この記事の著者・前田安正さんのメルマガ
「母」は何をしたのか?
主語を表す助詞で考えてみます。主語を表す格助詞は「が」です。「が」と同じような役割として「は」という助詞を使うことがあります。しかし「は」は、主語を表す格助詞ではありません。いまは、文法として副助詞と呼ばれています。本書では「は」の役割・性質を表すために、係助詞と呼びます。
①母が食事をしているのを見ていると嬉しくなる。
この場合、食事をしているのは「母」です。その様子を見て嬉しくなっているのは、隠された主語の「私」です。ここで「私」が「見ていると嬉しくなる」の主語になり得るのは、日本語では、書き手が主語の場合には、省略しても成り立つことが共通理解になっているからです。
- 深く眠った。
- 朝早く起きた。
と書けば、その主語は書き手の「私」です。私以外の場合は、主語を明示しなくてはなりません。これは、日本語の暗黙のルールになっているからです。そのため①では「母が食事をしている」「(私は)見ていると嬉しくなる」という行為の主体がわかるのです。
「は」を侮るなかれ
ここに日本語の複雑さが潜んでいます。①を次のように変えてみます。
②母は食事をしているのを見ていると嬉しくなる。
「が」を「は」に変えただけです。こうすると、「見ていると嬉しくなる」のが「母」です。「母」が「食事をしている」のではありません。「母」以外の誰かです。子どもかもしれないし、お客さんかもしれません。
①の「母が」と、②の「母は」では、母の行為がちがってきます。整理します。
①母が⇒食事をしている
②母は⇒嬉しくなる
この違いは「が」と「は」のにあります。「が」は主語を表す格助詞です。これは直後の述語(述部)にのみ作用します。そのため①では「母が食事をしている」に作用します。一方、「は」は係助詞です。これは、遠い述語(述部)に作用するのです。②の場合は「母は嬉しくなる」に作用します。
この記事の著者・前田安正さんのメルマガ
主語と述語を近づければ、わかりやすくなる?
②の「母は」という主語を「嬉しくなる」に近づければ、こうした紛らわしさがなくなるのではないか、という考えもあります。
②−1食事をしているのを見ていると母は嬉しくなる。
という具合に、「母は嬉しくなる」とすると、この部分の主語と述語(述部)は、②よりはっきりします。ところが「食事をしているのを見ていると」の主語を明示しないと文が成り立ちません。たとえば、
③子どもたちが食事をしているのを見ていると母は嬉しくなる。
「子どもたちが食事をしている」「母は嬉しくなる」という形で対比させなくては、文が成り立たないのです。しかし、こうすると「子どもたちが食事をしている」のを「見ている」主体が曖昧です。
ⅰ.子どもたちが食事をしているのを見ている/と母は嬉しくなる。
ⅱ.子どもたちが食事をしている/のを見ていると母は嬉しくなる。
③を意味のかたまりで区切ると、二通りの分け方ができます。ⅰでは、「子どもたちが食事をしているのを見ている」という意味のかたまりが生まれます。すると、食事をしているのが子どもたちなのか、他の誰かなのかが判然としません。その様子に対して「母は嬉しくなる」という構図になります。そのため、②の解釈とは齟齬が生まれます。
ⅱは「子どもたちが食事をしている」「のを見ていると母は嬉しくなる」というかたまりになります。すると後半の「のを見ていると母は嬉しくなる」という部分が曖昧になります。「見ている」と「嬉しくなる」という述部の間に主体の「母」が挟まれているので、不安定な文になってしまうのです。
結局、文意は明確にならない?
つまり、「母は嬉しくなる」というふうに、主語と述語を近づけても、文意が明確にはならないのです。改めて②を引いてみます。──(メルマガ『前田安正の「マジ文アカデミー」』2023年7月25日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
この記事の著者・前田安正さんのメルマガ
image by: Shutterstock.com