スポーツは「ルール」という線引きがしっかりしていないと成り立ちません。その秩序の保ち方は、こと学校教育においても同様のはずです。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、現代の学校現場のルール、SNSの普及によって履き違えられた自由などについて私見を述べています。
ルールに「自分くらい」も「ちょっとぐらい」もない
10月9日は、スポーツの日である。
この日は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」と定義されている。
勝ち負けに注目されやすいが、本来は他者尊重の精神こそがスポーツの根底にある。
そこでスポーツでは、「線引き」がはっきりしている。
陸上でも球技でも何でも、ライン上の「ここから先はアウト」というのがある。
「少しぐらいなら出てもいい」ということはない。
明確に決まっている。
サッカーなら、ボール1個分がラインの外に出た時点で「ラインを割った」とみなす。
逆に、僅かでもボールの一部がライン上に残っている間は「割っていない」とみなす。
バスケの場合なら、ラインにかかった時点でアウトだが、ボールが地面につくまではアウトとみなさない。
野球のストライクゾーンやファールライン、陸上のスタートラインやゴールライン、何でもそうである。
ルール上に境界線が明確に存在しており、「少しぐらいなら」ということは決してない。
会計関係なら1円違った時点でアウトである。
特に公金を扱う場合は厳しい。
監査も入る。
「社長だから」とか「1円ぐらいなら」ということは原則としてあり得ない。
そうだからこそ、世の中には秩序が保たれ、安全・安心で暮らせるのである。
線引きが曖昧な社会は、危険だらけである。
日本の交通機関、特に電車のダイヤは世界的に見ても優秀だと言われる。
1分刻みで秩序が保たれており、遅れてくる方が珍しい。
世界の常識からすると、驚異的な正確さだという。
これを揶揄する声ももちろんある。
そんなに急いでどこに行く、ということである。
確かにそうかもしれないが、利用者の立場からすれば、いい加減よりも正確な方がいいのは間違いない。
繰り返すが、線引きがはっきりしているからこそ、安全・安心が保たれるのである。
学校のきまりも同じである。
当たり前だが、学校は無法地帯ではない。
それぞれ、必要に応じた場のルールがある。
場のルールに従うというのが、その場に属す際の大原則である。
「自分くらい」とか「ちょっとぐらい」というのは通用しない。
線引きされたその上を越えたら、アウトである。
だから、前回も書いたが「枠の中で自由の権利を行使する」というのが大切なのである。
その場の枠であるコートの大きさは、決まっているのである。
その場で「○○は禁止」「△△すること」と決まっているなら、それがルールなのである。
例えばドレスコードに従えない人は、そのレストランに入場する「お客様」としての資格はないということである。
ルール自体が時代に合っておらず、おかしいこともある。
これはルール設定者側が真剣に考えるべき点である。
同時に、そのルールに従うべき立場にある側も、真剣に交渉すべきである。
ただしその場合、自者の都合と欲を満たすだけの「小欲」であれば、それは通らない。
世のため人のためを考えた「大欲」によるものであれば、検討の価値ありのはずである。
スポーツの根底にある、他者尊重の精神である。
SNSの普及のせいもあってか、自由の履き違えと思われる言動が散見される。
あくまでルールがあり、とにかく面白ければいいというものではないということは、よく認識され始めているところである。
学校に対しても誤った自由の意識が見られる一方で、これは学校や教師の側にも見られる。
考えるべきことはシンプルにたった一つで、原則としてルールを守ることである。
ルールを破れば罰せられる、あるいは権利を制限されるということも当然の認識とすべきである。
そして、ルールの側が本当におかしいならば、公的に話し合って再検討すべきである。
誤ったルールであれば改善されるだろうし、正当であればそのままになるはずである。
特に公務員はルールに従うしかない以上、適切と思われないルール自体の改善を求めるのは至極当然である。
毅然とした対応とは、機械的な冷たい対応のことではない。
正当な判断基準に則った対応のことである。
毅然と対応できる社会の基盤として、学校もそうでありたい。
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