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プールで首を折り「最重症障害者」になった彼が、歯科医と大学教授になるまで

最重症障害者でありながら歯科医師、ソウル大学教授という二足のわらじを履く男性が韓国に存在します。無料メルマガ『キムチパワー』の著者で韓国在住歴30年を超え教育関係の仕事に従事している日本人著者は、彼がなぜ障害者となってしまったのか、そしてそこからどう這い上がったのかについて紹介しています。

世界唯一、最重症障害者歯科医師

体の不自由な歯科医がいる。小説の主人公としても信じがたい世界唯一の最重症障害者歯科医師である盆唐(ブンダン)ソウル大学病院の李ギュファン教授(45)だ。

2月19日、この病院の健康増進センター歯科クリニックで彼に会った。肩の一部と両手首の他には全身麻痺だが、国立リハビリ院・障害者雇用公団などと共に作った補助器具を利用して毎日午前8時から午後3時まで患者を診る。彼が聞かせてくれた人生の話を再構成した。

世の中は簡単だった。勉強がよくできて、188センチと高い身長にふさわしくテニス・水泳などできない運動がなかった。医学部より勉強が楽で(本人の言)、お金はもっと儲かるし、いっぱい食べて豊かに暮らしたいと思い歯科大学(檀国大学歯科大学)に入った。

召命意識、そんなものはなかった。卒業したらお金をたくさん稼いで、良い家で良い車を運転して旅行して暮らすと信じていた。人生が思い通りに運ぶという自慢はある刹那、一瞬間にして、くず折れた。

文字通り、折れた。歯科大学本科3年生の時の02年夏、友達について行ったプールでダイビングして首が折れた。医学的に説明すると、手足はもちろん心臓・肺を動かす主要神経が通る頸椎3、4、5、6番が損傷した。四肢が麻痺して呼吸さえうまくできないまま集中治療室で一週間で目を覚まし死ぬ日だけを待った。泣きながら祈ったりもした。「神様、私を立たせてください」。奇跡はなかった。

助けてくれと言った祈祷は「どうか私を連れて行ってください」に変わった。血をたくさん流すほど強く舌を噛んだりもしたが、あまりにも痛くて死ぬほど噛むことはできなかった。一日中、各種数値が上がったり下がったりするたびに「ピーピー」と鳴る警告音と、自分の血管が炎症を起こし爆発し続けることより、そばで怒鳴ったり泣いたりしながら死んでいく他の患者を毎日見守るのがより辛かった。「私ももうすぐあんなことになるんだ」という考えに狂いそうだった。踏ん張ったのではなく、成り行きに任せた。勝手に死ぬこともできないから。

集中治療室なので、家族の面会は1日1、2回20~30分間、短く許可され、事実上24時間一人で天井だけを眺めていなければならなかった。耐え難かった。看護師たちに10分でもいいから読み物を見せてくれと言った。精神はまともなのに四肢麻痺した若い患者が可哀想だったのか、時間があるたびに順番に『本の泉』雑誌や逆境を克服した人々を扱った新聞記事など人生を肯定的に眺める文章を広げて見せてくれた。時には中国武術漫画や『スラムダンク』のようなマンガを持ってきた。

次第に希望が芽生えた。明日死んでもやりたいこと、どう考えてもそれが歯医者だった。たとえだめでも努力でもして死にたかった。すべて不可能だと言ったが、あまりにも切実だったし、あまりにも無知だった。とりあえずぶつかった。

檀国大学病院を経てソウル大学病院の集中治療室から退院した後、母親と2歳違いの兄が押してくれる車椅子に乗って学校に行った。すべての教授研究室のドアをノックした。

最初からドアを開けてくれない教授もいたし、「この学生に何ができるのか、卒業させることはできない」という厳しい言葉を吐き出す教授もいた。「頑張れ」とか「力を出せ」と言いながらも「どうやって助けてやったらいいか分からない」と困っていた。

しかし、たった一人。「やってみよう、助けてやる」と勇気づけた教授がいた。今は故人となったシン・スンチョル学長だった。「君がこんなにもやりたがっているのに、なぜ転科したり退学させたりできようか。学生が勉強したければ当然できるようにするのが教授の仕事だ。助けることはできないが、するなということはわたしの辞書にはない。途中でやめたとしても、とりあえずやってみようじゃないか」。

私を拒否されたことへの意地、私を信じてくれたことへの感謝の気持ちで、シン教授にこのように話した。「私、このままでは死にそうです。本当に死ぬ気でやり遂げる姿をお見せします」

危機はたちまち訪れた。床ずれがひどくなり、お尻の骨が丸見えになるほど膿んでいた。医師は、「このままでは足を切断する以上に、死ぬこともありうる」とし、直ちに手術を勧めた。回復まで少なくとも3か月はかかる大手術だった。手術を拒否して勉強を続けた。また休学すれば、学校が絶対に二度と受け入れないような気がして、ひとまず夏休みまで待ってほしいとして持ちこたえることにした。車椅子で気絶しながら踏ん張った。

床ずれ・敗血症…。死の淵を何度も越えたのはもちろん、何人かの教授が本人の診療や実習や講義に近づくこともできないようにはばんだりもした。方法はたった一つ。バカになったように熱心にすることだけだった。

麻痺は依然としてあったが、器具を手に結んで「怪物の手」になるまで数万回練習し、またした。不思議なことに、困難に直面するたびに周囲から助けられた。その教授が席を外せば、後輩教授が診療ができるようにしてくれて、卒業基準を合わせることができた。極限の苦痛を甘受して得た歯科医師資格証に「私の努力は1%だけで、残りは周辺の人々が手を握ってくれたおかげ」と話す理由だ。

復学後、唯一の願いは歯科医だった。なってからまた壁だった。盆唐ソウル大学病院に入る前の1年間、大きな病院、小さな病院を問わず、100回以上断られた。絶望して諦めようかな、とも思った。ところが、経験が本当に怖い。一度塞がれた壁を越えてみたが、もう一度できないことはないと思えたのだ。無条件で挑戦した。実力が支えてくれるなら、壁であることを知りながらも叩くと必ずしも正門ではなくても横道くらいは作られる。

朝起きたら必ずインターネットで応募し「院長、副院長、企画室長、センター長、行政室長に変えてほしい」と電話した。ずっとメモを残した。

そのようにして合格したのが盆唐ソウル大学病院だ。05年7月に一度来て患者の診療をやってみるように言われた。テストだった。病院長・副院長・課長・行政室長が全員来て、どのように診療を行ない患者に説明するかを見守った。そして先入観のない開かれたマインドで受け入れてくれた。後で「なぜ合格させてくれたのか」と尋ねると、誰かがこのように話した。「何べんも応募してきて面倒くさいから一度来てみろと言ったのに、よくやったね 」

医師生活の初期には器具を手に縛ってやったが、傷があまりにも多かったり、患者の目にも良くないため、今は人差し指にはめる補助器具を直接注文製作して使用する。単純に見えるが、業者に騙されるなど紆余曲折と10回余りのアップグレードを経て、今の形になった。

実際の診療は別の壁だった。あるおじいさんが「あんなカタワものに診療を受けろというのか」と大声を張り上げ、また別のある中年男性は「ついてねえの」としてドアを蹴って出て行った。顔に唾を吐く人も多かった。

悪口を言いながら唾を吐いた人々、絶対に恨まない。むしろ理解する。私も診療を受けたくなかったはずだから。事故後になってやっと困っている人、人の事情が目に入った。また、自分ではなく相手の立場で考える習慣がついた。ある意味、自分が傷つかないようにそうしたようだ。悪口を言って無視する言葉を全部私の立場で受け入れていたら、心が腐って傷ついて生きていけなかっただろうから。ところが、相手の立場からまた別の視線で見れば、すべて理解できる。

そのため、怖くて診療を受けたくないのに、何も言えずに座っている患者にいつも話していた。「私は仕事が遅いです。でも実力は最高です。世の中で一番正確で几帳面に見てあげます。」真心は結局通じる。最善を尽くして6か月ほど経つと、わざわざと訪ねてくる患者がでてきた。

辛い時は、死なせてほしいと祈り、その次は歯科医師になるようにしてほしいと祈り、職業を持たせてほしいと祈った。今は何の願いもない。一度きりの人生をただ熱心に生きるだけだ。

最初は違った。後悔ばかりだった。あの日あのバスに乗らなかったら、プールに行っていなかったら…。後悔すると人生が過去に進む。今を生きるのではなく、過去に閉じ込められる。希望がなく、自らあまりにも悲惨で、可哀想で生きていけない。それで事故を悪夢ではなく良い思い出と考えたら、私の人生に感謝するようになった。障害者として不便で苦しい状況を体験する時も不満の代わりにどう変えればもう少し楽になるか、そう思う。

他人の視線が怖くてしきりに隠れる障害者たちに、無条件に社会に出て私のようにぶつかってみてと言ってあげたい。世の中が良くなったというが、まだ差別が多く無視が日常だ。そうなればなるほど、障害者という理由で恩恵を望まず、他人より何でも10倍も努力しなければならない。熱心にすれば周辺で「一緒にやってみよう」と心を開いて助けてくれる。 一度だけの人生、他人が簡単に吐き出す「だめだ」という言葉にだまされず、自分がしたいことをしながら生きなければならない。

定年後の人生? 定年どころか、一日先も考えない。いつでも壁にぶつかったら、またバカになって頑張れば結局道が開けるということを知っているからだ。死ぬほどの努力が必要だった時は心に鋼鉄を敷いて強い心で生きたが、今は暖かい人になろうと努力している。昨日よりもう少し暖かい人、だから周りがもっと暖かくなるとしたら、それが正しい人生のようだ。それが生きている理由だと思う。その時代の私のように希望なしに人生をあきらめようとする人は本当に多い。そんな人たちに見せてあげたい。指さえ動かせない人が歯科医師かつソウル大学の教授もするんだということを。皆さんもそういうことができるということを。

事故で人生のどん底よりひどい泥沼に落ちた時、両親は「状態がどうで、これからはどうで、どう生きなければならない。」 こんなことは全く言わなかった。泣いてもいない。

今も同じだ。事故前と変わらず、障害について何も言わず、何でも息子の決定を黙々と尊重してくれる。7歳になった娘を産んでからやっと分かった。その時、両親の胸が数百回も裂けて泣き叫んだのだろう。大きくなる子供に見せたい。お父さんはこんなに一生懸命生きているんだよ、もっと誇らしいお父さんになろうと努力しているんだよ、と。(中央日報参照)

image by: Shutterstock.com

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韓国暮らし4分1世紀オーバー。そんな筆者のエッセイ+韓国語講座。折々のエッセイに加えて、韓国語の勉強もやってます。韓国語の勉強のほうは、面白い漢字語とか独特な韓国語などをモチーフにやさしく解説しております。発酵食品「キムチ」にあやかりキムチパワーと名づけました。熟成した文章をお届けしたいと考えております。

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【著者】 キムチパワー 【発行周期】 ほぼ 月刊

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