「愛子さま排除法」とも呼びうる旧宮家系男子養子法が成立しました。時の政治権力が天皇の「血統」にこだわり、皇室の将来を勝手に左右しようとする——この構図、実は100年前の大正時代にも起きていました。元老・山県有朋が皇太子の婚約を破談にしようと画策した「宮中某重大事件」です。『小林よしのりライジング』では、著者で漫画家の小林よしのりさんが、この埋もれた歴史に光を当てた石瀧豊美氏の新刊を手がかりに、山県の陰謀を葬り去った頭山満の知られざる功績と、現在の皇室典範「改悪」問題の本質に迫ります。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです
皇室典範改悪は「第二の宮中某重大事件」だ
ついに「愛子さま排除法」(旧宮家系一般国民男子養子法)が成立してしまった。
この法律の下では、天皇陛下の実のお子さまである愛子さまが次の天皇になれない一方で、600年遡らないと男系の血筋がつながらない赤の他人が皇族になって、その子が男だったら天皇になれることになる。
政治がここまで勝手に天皇制に手を突っ込むのは、まさに前代未聞である。
もっとも「前代未聞」といっても、憲政史上にこれを連想させるような前例が全くなかったわけではない。
その唯一の例は今から100年以上前の大正時代、1920年から翌年にかけて起きた「宮中某重大事件」である。
宮中某重大事件とは、当時皇太子だった昭和天皇の結婚相手に内定していた良子(ながこ)女王(後の香淳皇后)の家系に「色盲」の人物がいたことを元老・山県有朋が問題視し、これを破談にしようと画策したというものである。
(「色盲」は現在では「色覚障害」などに言い換えるべきかもしれないが、当時使われていた用語としてそのまま使う)
言論の自由が保障されていなかった当時はこれを詳しく報道することも許されず、「某重大事件」という名称でしか語ることができなかったのだ。
山県は、裕仁皇太子(昭和天皇)と良子(ながこ)女王(香淳皇后)が結婚したら、将来の天皇となる子が色盲で生まれてくる恐れがあると懸念した。 山県は「天皇の血統」を重んじ、そこに「劣った血」を入れてはならないという信念を持っていたのだ。
そのため山県は、良子女王の実家である久邇宮家に圧力を掛け、婚約を辞退させようとした。 当時「明治の元勲」である山県には、首相をもはるかに上回る絶大な権力があり、そのままだと縁談は流れるところだった。 もしそうなっていたら現在の上皇陛下も、もちろん天皇陛下も生まれていなかったことになる。
歴史を左右するような大事件だったにもかかわらず、これは現在の歴史教科書にもほとんど載らず、詳しい日本史用語集や資料集にしか載らないような扱いである。
そしてこの事件に興味を持って研究しようとする専門家もなく、事の真相はほとんど解明されないまま、100年の月日が経っていた。
埋もれた歴史に光を当てた研究者
だが、この埋もれた歴史に光を当てた研究者がいる。
近代史家の石瀧豊美氏である。
石瀧氏は今年、新刊『頭山満 沈黙の昭和史─「宮中某重大事件」百年目の真実─』(筑摩書房)を出版された。
石瀧氏は明治から昭和の敗戦まで福岡に存在した政治結社「玄洋社」研究の第一人者で、わしも玄洋社の中心人物・頭山満を主人公にした漫画『大東亜論』を描く際には、直接お会いしてご教示をいただいたこともある。
頭山満は生涯を無位無官の浪人の立場で過ごしながら、国内外から絶大な信頼を寄せられ、「アジアの巨人」と呼ばれた人物である。
頭山は終戦前年の1944年に89歳で死去、戦後には「右翼の巨頭」というレッテルを貼られ、その存在さえキャンセルされてしまった。
だが実際の頭山は日中不戦論者であり、大東亜戦争末期には老体を押して中国国民軍の総統・蒋介石と直談判で和平交渉をしようとしていた。 そして蒋介石も、日本政府の要人には誰とも会うつもりはないが、頭山となら会うと言っていた。 頭山満とは、それほどの大人物だったのである。
その事実は戦後、完全に忘れ去られていたが、石瀧氏はその史実を発掘して『頭山満 未完の昭和史』という著書にまとめ、わしもライジングで紹介した。
https://note.com/yoshirin_k/n/na03a51baf68d
石瀧氏は続けて埋もれた歴史「宮中某重大事件」の発掘に挑み、ついにこれを形にされたのである。
石瀧氏は「現在は第二の宮中某重大事件が進行中」だという。
時の政治権力者が天皇の「血統」に異様にこだわり、皇室の将来に関わる皇太子の婚姻を勝手に左右しようとしたという構図は、確かに現在起きていることと似たようなものを感じさせる。
だがこの時は、結局は婚約が破棄されることもなく、ご結婚は予定通りとなった。 それは、一度決まった縁談をそんな理由で無理やり解消させるのは許されないとして、絶対的な権力者だった山県と徹底的に戦った者がいたからである。
従来はその人物として、昭和天皇の教育係を務めた杉浦重剛の名だけが挙げられていたが、実は当時、杉浦と一心同体で活動し、山県の企みを葬り去った人物がいた。
その人物こそが、頭山満だったのである。
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エセ科学だった「鑑定書」の正体
従来この事件について歴史家は、良子(ながこ)女王やその父親の久邇宮邦彦王の方を批判的に語ることが多かった。
それは良子女王に「色盲遺伝子」があり、皇太子の子が色盲になるおそれがあったということが前提とされ、これに抵抗した久邇宮の側が「非科学的」で「頑迷」だったというイメージで見られたためだった。
だが石瀧氏はその「前提」を疑い、根拠とされた侍医の意見書や東大の5人の教授による鑑定書を詳細に検証。 その結果、意見書・鑑定書共に重大な不備があり、「エセ科学」に陥ったものと認めざるを得ないとの結論に至っている。
これらの意見書・鑑定書は山県有朋に対して提出されたもので、最初から山県に都合のいいように「結論ありき」で書かれていたと考えられる。 そしてこれが「東大教授」らの鑑定書だという「権威主義」によって、無条件に事の「前提」にされたまま今日に至っていたのである。
皇統問題について、令和の「有識者会議」が権力の望むとおりの報告書を書いたり、内閣法制局が「旧宮家養子案」を「合憲」と強弁したりしているが、これと似たようなことが100年前にもあったというわけだ。
頭山満と杉浦重剛は、かつては山県と共闘して活動していた。 そのために杉浦は山県自身の言動からその企みを察知できたのだが、杉浦ひとりではとても山県に太刀打ちはできなかった。 そしてここに頭山が加勢し、かつての同志であった山県と完全にたもとを分かち、戦うことになった。
もともと良子女王に色盲遺伝子があるという診断自体が非常に怪しかったのだが、頭山と杉浦は、仮に皇太子の子が色盲で生まれたとしても、そんなことは些末な問題にすぎないと考えていた。 それよりも血の優劣を根拠に、一度決まった縁談を覆すことの方が「人倫にもとる」と捉えたのである。
かくしてここに、「純血論」を取る山県有朋と、「人倫論」を取る頭山・杉浦連合の激突が始まったのだった。
紀元節に集結した反山県勢力
事件の最大の焦点になると見られていた日は、1921年(大正10年)2月11日の「紀元節」(現在の建国記念の日)だった。
この日、病気療養中の大正天皇の回復祈願などを目的とした「国民大会」が明治神宮で開かれる予定があり、そこに反山県の勢力が集結することになっていた。
キリスト教教育者・押川方義らによる「城南荘」グループ、頭山らの「玄洋社」、内田良平らの「黒龍会」、北一輝の「猶存社」、さらにはかつて山県暗殺を企図したことのある行動派グループまでがいた。
また、後の陸軍大将・岡村寧次少佐や、その上司・秦真次中佐がこれの後押しをしていたと見られる。 当時の陸軍大臣は山県の子分の田中義一だったから、岡村や秦の動きは陸軍内における「裏切り」ともいえた。
その前日には「数十万部」ものビラが配布されそうになり、警察に差し止められたとの記録もあったが、そのビラの制作費なども、陸軍の機密費あたりから出ていたのかもしれない。
もう、何が起こってもおかしくない状況だった。 しかし、いかに集会の自由が制限されていた時代であっても、紀元節に明治神宮で天皇の病気平癒祈願をするという集まりを中止させるわけにもいかない。 そうして緊張感が最高潮に達し、政権内でも動揺が広がっていった。
そんな中、紀元節前日の2月10日、内務省は「婚約の内定に変更なし」との発表を行い、事件は急転直下の解決を見たのだった。
これによって山県有朋は一気に失脚。 一切の官職・栄典の辞退を申し出て謹慎した。 山県は頭山と杉浦の名を挙げて「今度ばかりはあの二人にやられた」とこぼしていたというが、間もなく体調を崩し、その翌年満83歳で死去した。
山県の葬儀は国葬として日比谷公園で取り行われたが、「不参者の数は相当に多く、場内は寂しかった」という。
決定的に事態を動かした「国民大会」開催という計画について、頭山はどう動いていたのか。 いつもそうだったように、頭山は自ら表に立って動くことはなく、裏で動いた記録も残していないので、はっきりしたことはわからない。
だが、頭山の力なくしてこのようなことはできなかったのは、まず間違いない。 それがわかっていたから山県も、頭山と杉浦の「二人にやられた」と言ったのだろう。
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昭和天皇が浪人に送った異例の勅使
そしてもう一人、頭山満こそがこの件の解決に最も功績のある人物だったということを認識していた人物がいた。
昭和天皇である。
昭和天皇はその後20年以上にわたり、宮中行事に頭山を招待し続けた。
そして1944年に頭山が死去すると、昭和天皇は勅使を派遣し、花一対を送った。 これは異例中の異例、前代未聞の出来事だった。
勅使差遣は皇族・華族・政府高官・高級軍人など社会的身分の高い人物、国家に功労のあった人物の死去・葬儀に対して行われる。
それなのに、生涯を通して無位無官、在野の一浪人だった頭山に勅使が遣わされたのだ。 こんなことを政府が判断するわけがない。 何しろ頭山は「宮中某重大事件」のみならず、亡命インド人、ビハリ・ボースを匿ったり、蒋介石の重慶政権を正式な中国政府と認めて和平交渉に臨もうとしたり、政府権力の方針に逆らうようなことばかりしていたのだ。
これは昭和天皇自らの判断、決定、指示以外には考えられない。
勅使差遣によって、頭山の葬儀は枢密院議長よりも格上、大勲位級の「事実上の国葬」となった。 そうして、空襲が警戒される戦争末期の東京において、2万とも3万とも、あるいはそれ以上とも言われる人々が葬儀に駆け付けたのだった。
石瀧氏は『頭山満 沈黙の昭和史』のまえがきに、つぎのように書かれている。
〈「綸言(りんげん)汗の如し」という格言がある。 綸言は天皇の言葉。 天皇の言葉は汗と同じで、いったん口から出ると取り消すことができないという意味だ。 将来、天皇となるべき皇太子が、軽々しく婚約を取り消すことは、その出発点において、天皇に課せられた生き方──「綸言汗の如し」に違背する事でもあった。 杉浦重剛が、将来の天皇の権威を傷つけられることを恐れたのはもちろんだが、加えて、不誠実な行いとして皇太子の心に刻印され、天皇となった後もそれがトラウマとなることを心配してもいた。 結果として皇太子は一方的な婚約破棄という汚名を着ることなく、国民の祝福を受けて結婚した。 〉
頭山は杉浦と共に天皇の尊厳を守り抜いたのであり、昭和天皇はそれに最大限の感謝を示しておられたのである。
さらに石瀧氏はまえがきに、「『昭和・平成・令和の皇室は頭山満がつくった』と言っても過言ではない。 後の昭和期以降の皇室の在り方が形成される上で、その端緒における頭山の役割は決定的だった」と書いているが、いただいたメールでは石瀧氏はこれに続けて「その目で見ると、現在の皇室典範改正問題は頭山が命をかけて守ったものの冒涜です」と憤っておられた。
全く「歴史を知らない」ということは恐ろしいものだ。 国会議員ともあろうものが、それも80歳も超えたジジイまでが、先人が命懸けで守ってきた宝物があるという歴史を一切知らず、クソガキが飽きたオモチャを床にたたきつけるような感覚でこれを破壊しようとしているのだ。
戦うしかない。 頭山の遺志を継いで戦うしかない。
もちろんわしなど頭山のスケールとは比べ物にもならないが、敵の麻生太郎だって山県有朋に比べりゃケシ粒みたいなもんだ。
とにかく「歴史は繰り返す」という言葉をいい方に解釈して、「宮中某重大事件」と同じように天皇の尊厳が守られる結末が繰り返されることを願いつつ、命懸けで戦ってみるだけだ。
皇室を守って戦う者がいるという事実を後世に残そう!
(『小林よしのりライジング』2026年7月21日号より一部抜粋・敬称略。そのほかの記事も満載のメルマガ『小林よしのりライジング』全文はメルマガ登録の上お楽しみください)
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