大きな社会問題となって久しい児童・生徒の不登校。そんな問題をめぐり8月に東京都板橋区で起きた騒動が大きな話題となり、SNS上でも議論が沸騰しています。今回のメルマガ『伝説の探偵』では、現役探偵で「いじめSOS 特定非営利活動法人ユース・ガーディアン」の代表も務める阿部泰尚(あべ・ひろたか)さんが、このドタバタ劇の経緯を紹介するとともに、何が問題であったのかを考察。さらに不登校対策に閉塞感と限界を与えているという「ある意識」の存在を指摘しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:46万人という衝撃
東京板橋区で起きた不可思議な「不登校対策の提携削除事件」
いじめの認知件数は2022年度で68万1,948件、1日あたりで計算すると、およそ1日1,868件起きていることになる。
一方、長期欠席者の数はとなると、なんと46万人いるというのだ。ちなみに、不登校の数はおよそ29万9,000人いるという。
長期欠席と不登校の違いはあるが、長期間学校に行くことができないという点では同じだと言えよう。文部科学省、学校基本調査の用語解説においては、「理由別長期欠席者」について「前年度間に30日間以上欠席したものの数。欠席は連続である必要はない」としていることから、長期欠席とは年度間通算で30日間と捉えることができ、不登校においては、1年で30日以上の欠席をしている状態を指すと定義されている。
違いを考えるより、長期欠席の場合は病気やケガなども含まれる数と捉えればよいだろう。
それにしても、数が万単位で増え続けている現在、未だにコロナ禍の影響とは言い難いのではないだろうか。
やっとこうした点に国も気が付き始め、こども家庭庁などが対策強化を始めるようだが、不登校対策界隈では不可思議な事件が起きている。
この記事の著者・阿部泰尚さんのメルマガ
板橋区と再登校支援企業「スダチ」とのドタバタ劇
2024年8月5日、不登校児童や生徒を支援する会社という株式会社スダチと不登校支援で連携するとプレスリリースを出し、報道された。当初は平均3週間で再登校9割以上の実績というスダチの成功率など画期的かと思われたようだが、不登校支援の活動団体や専門家からはすぐさま疑問が沸き上がった。
板橋区のホームページではその後すぐに、「板橋区と株式会社スダチが連携し不登校支援を強化」という記事を出しているが、批判が集まると、これを削除し、現在は「板橋区と株式会社スダチが連携し不登校支援を強化という記事がSNS上で掲載されておりますが、その事実はございません。」という記事を掲載している。
● 「板橋区と株式会社スダチが連携し不登校支援を強化」という記事について
報道によれば、板橋区の不登校支援メニューとしてトライアルで進めていくことが合意されていたようで区議がスダチを板橋区に紹介し、5月には話し合いがあって、7月下旬には板橋区教委が一部の小学校にスダチを紹介していたという。
板橋区側は「言葉違い」というような説明を報道機関などにしているようだが、どう考えても無理があるだろう。結局、板橋区はスダチとの連携を取り止めるもしくは、そもそもそんな話はないとしたいところで、事実上連携自体は無くなったと思われるが、区教育委員会としての知識不足、認識不足、低い意識を露呈したということには変わりないだろう。
私はいじめの被害者支援という立場を通じて不登校の児童生徒にはかなり頻繁に会うし、その保護者から頻繁に相談を受けるが、前述のスダチのホームページによると、完全オンラインで親が指導を受けるというスタイルで、直接こどもが関わらない手法というのは、「ん??マジか??」という疑問だらけになる。
きっと、大々的に宣伝しているわけだから、1,000人中最短で2日で不登校から脱したり、平均3週間でおよそ90%以上のこどもが登校できるようになるのだろう。その一方、より酷くなったと訴える親が報道に登場していることから、この宣伝文句が事実でなかったら、大変な問題だ。
私の経験不足かもしれないが、親の教育方針や関わり方を変えた程度ではむしろ逆効果になるだろうと肌感覚で感じている。肌感覚でというのは、そうしたことはやったことがないからだ。実際に会っていて、危険だと実感しているし、そもそもで、「再登校」することが正解だとは思えないのだ。
今現在、私はいじめ被害者で教育委員会と話し合いが始まっている小学6年生の男子児童と小学3年生の女子児童の勉強を見ている。私は一応教員免許を持っており、塾講師の経験が有るため、ドリルをやってもらい、教科書でわからないところを解説する程度のことだが、そういうふれあいの中でも、彼らに再登校しろというのは酷以外のなにものでもなく、またあの地獄の中に送り出す気にはならない。
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「いじめは不登校の原因の0.2%」は本当なのか
さて、こうして私が不登校について書くと、不登校の専門家の一部から、いじめはあんまり関係ないから、いじめの世界に戻れと言われることがある。今回も間違いなく、言われることだろう。
確かに文科省のデータによれば、「いじめ」は不登校の原因として「0.2%」だと書いてある。私もこのデータは確認しているが、そんな「レアケース」がこんなに頻繁に目の前に起きているのかとオバケを見た気になるのだ。
しかし、NHKが2023年10月4日、令和2年度に文科省が行った調査の結果を記事にしている。その調査とは全国の小中学校に通う、前年度に不登校であった小学6年生と中学2年生、あわせて2万2,000人余りを対象に行われ、このうち2016人から回答があったという調査結果では、「いじめや嫌がらせがあった」と回答した小学生は25.2%、中学生も同様に25.5%であったと報告しているのだ。
調査というのは選択型の回答方式などその方法や調査をする側のバイアスでも結果は変わるものだが、0.2%と25%の差はあまりに開き過ぎていると言えるだろう。
ちなみに、これも文科省の調査結果である。どっちが本当なの?ぜひとも、明確に答えを出してほしいところだが、すでに、不登校や長期欠席対策をこども家庭庁が始める中で、いじめ問題にも深いかかわりがあると前提にしていることから、25%が現実なのだろうということになろう。
「通学以外は学びではないという意識」が問題
不登校対策はこれまで様々な試みが行われてきている。例えば、学校内にカフェを作り、誰でも自由に出入りができて好きに過ごせるという部屋を設けている学校があったり、オンラインをフル活用して授業が受けられる仕組みを作ったり、公的なフリースクールのような学校を作ったりと、自治体の取り組みよって様々で、それぞれ効果は出している。
しかし、対策は1つではないと私は思うのだ。例えば、クラスでいじめに遭い、適応障害などでクラス内に一歩も入れない子は、加害者の頭が画面上をかすめただけでも、オンラインの画面を目の前にする事だけでも苦痛になってしまう。
学校自体がトラウマの原因になっている場合は、そもそもで校内のカフェにはたどり着くことができないのだ。
つまり、選択肢はあればあるだけ良い、もちろん限りある自治体予算の中であるから、その限りはあるだろうし、ほぼ選択されない選択肢は用意の必要もないかもしれないだろうが、今、不登校対策に閉そく感と限界を与えているのは、教育現場によくある「通学以外は学びではないという意識」だ。
多様化する社会の中、当然に問題も多様化するのだ。柔軟かつ多様性を認めた教育制度を当たり前にすることこそ、この国が将来を豊かにする道なのではなかろうか。
体罰や暴力が善行であるならば自分が受ける側になれ
最もわかりやすい事例で言えば、「戸塚ヨットスクール」だろう。戸塚ヨットスクールは私と同じような年代に人は子ども時代に、テレビでもよく見た社会問題化した事件を思い出すだろう。
Wikipediaによれば、
1979年から1982年にかけて、訓練中に訓練生の死亡・行方不明事件が複数発生。
1982年に起きた少年の死亡に関し、愛知県警察は当初は行き過ぎた体罰による事故と見ていたが、遺体から無数の打撲・内出血の痕跡・歯2本の損壊などが確認された。警察は捜査の時期を窺っていたが、1983年の5月にスクール前の道路を走っていた暴走族に対して一部のコーチが暴行して逮捕されたのをきっかけに、傷害致死の疑いでスクール内の捜査が始まった。その後、指導員が舵棒(ティラー)と呼ばれるヨットの艤装品(舵取りのための道具。一部では「角材」と報道された)で少年の全身を殴打し、その後ヨットでの訓練を続けていたことがわかり、組織ぐるみの犯行として6月には校長が、その後もコーチや元訓練生、そして支持者等の関係者が逮捕され、他の死亡事件についても起訴された。
こうした一連の事件が起きていたが、当初は不登校児や非行少年などを更生させているとマスコミは好意的に取り上げていた。実際は、暴力的支配が行われ、体罰が正当化されており、それによって命が失われるという事件もあったのだ。
その創始者戸塚氏が今月も「体罰は相手のため」など体罰を正当化して炎上している。コメンテーター的に起用しているテレビ局もあるようだが、正直、テレビ局のコンプライアンスはどうなっているのだろうと思えるほどだ。
この戸塚ヨットスクールの件でよく言われるのは、昭和の時代は鉄拳制裁はよくあった、今は平成を過ぎ、令和の時代であり、体罰はそもそも認められないということだ。
昭和50年代生まれの私は、まさに昭和の男であるが、鉄拳制裁はあったし、竹刀や木刀を持っている先生はいた。坊主処分用に学校にはバリカンがあったことも記憶している。
そして実際に使われていたし、木の棒で殴られたこともある。一方、先輩らがドスを持ち歩き、目立つ後輩をリンチしたり、先生にお礼参りと称して暴力及ぶこともあった。昭和40年代生まれの兄の時代には、廊下にスクーターに乗った暴走族が乱入したり、卒業式に機動隊がバスで来ていたのも見たことがある。
しかし、それを誇らしくは思わないし、それが良かったんだとは思わない。先輩に連れ去られリンチをされた友人を探すあの時の不安など二度と感じたくないし、全てのこどもたちにそんな思いはさせなくない。先生に殴られたくないから不満でもいうことを聞く、まるで家畜ではないか、それは教育とは断じて言えないのである。今は令和なのだ。時代と共にアップデートすべきだし、そもそも体罰や暴力は昭和の時代でも認容されるものではなかった。
学校は軍隊ではないし、こどもは牛追い棒や鞭で飼育する家畜ではない。仮に戸塚氏が本当に体罰や暴力が善行なのだというのであれば、自分が受ける側になるといいだろうし、こういう騒乱を巻き起こすマスコミももう取り上げるなと思うのだ。
さて、話を戻そう。
今、現在、体罰馬鹿が世の中を少しだけ炎上させたところで、体罰の是非が問われるような低い意識は言語道断であり、意識改革はほぼ進んでいないということだ。しかし、他人を変えることはできないと同様、人の意識はなかなか変わらないものだ。
この難題にどう向き合い、どう進むか、当然に後退もあるかもしれない。教育者それに関係する人たち、政治として教育の方針を決める人たちには、今が正念場だ。
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大人が現実を直視しなければ何も始まらない
政治家の方に国や自治体、公共の事を民間企業に例えるのは、ちょっと卑怯だよと言われました。まあそうですよね、立場が違いますもんね。
でも敢えて言います。
甘えてんじゃねぇーよ、クズが
搾取対象が国民市民だろうし、まあ教育ですら、ドラゴン桜的に言えば、国民はバカであってもらった方が都合がいいのでしょう。考えず、ただ堪えて働き、高い金を納めてくれれば万々歳。
国の将来を教育が担うのだとすれば、日本の教育費を考えれば、お先真っ暗とも言えます。先進の研究費は削られ、教員を増やすと言いつつ、処遇改善はブラック企業の最先端を行くサブスク状態です。こどもたちの心のケアで便利に使われる心理職の給与は底辺でありアルバイトやパートさんレベルで、身分の保証はほぼ無しの非正規同等の割に、子ども関係予算だけが、なぜか積みあがっていきます。
いじめにおいては隠ぺいは然ることながら、放置や改ざん、重要資料の廃棄といった背信行為までがあちこちで起きています。
私の記事を見ると気分が悪くなるという方から意見をもらうことがあります。もっと明るいことはないのでしょうか?未来に希望が持てることはないのですか?
ハッキリ答えます。ありません。確かに「おっ、これは期待が持てる。よくなるかもしれない。一歩進んだね」ということはありますが、それを見て、現実問題を直視しないのは、私は無責任だと思うのです。あくまで個人的意見ですが。
現実を直視すれば、解決すべき問題は山積みです。それは政治の問題かもしれないし、社会問題もかもしれないけれど、他人事ではなくまわりまわって我々一市民につけが回ってくるのではないでしょうか。
今を生きる大人として、未来を担うこどもたちやその先のこどもたちに、あなたは胸をはってバトンタッチをできるでしょうか。もしもできないと僅かにも思うなら、今一瞬一瞬が何かを変える正念場だと私は思います。
現実を直視しましょう、そこから全てが始まるはずです。
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