かつて書籍やネット記事のネタとして一世を風靡した感のある「仕事術」というカテゴリ。現在は耳にすることが少なくなってきましたが、そもそも仕事術とは誰により提唱され、どのように定義されるものだったのでしょうか。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』では文筆家の倉下忠憲さんが、「仕事術」がいかなるものであったかについて解説。さらに情報過多とも言える現代社会において、「仕事術」を含むノウハウ全般とつき合うために必要な姿勢を考察しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:仕事術から遠く離れて
2000年代の「仕事術ブーム」から遠く離れて。私たちはどんな夢を描いていたのか?
よくよく考えると「仕事術」というのは不思議な言葉です。仕事をするための術(すべ)。その対象は「生活術」と同じくらいに幅広いものでしょう。
実際、Amazonで「仕事術」と検索すると圧倒されるくらいの本が表示されます。実に多様な仕事術の世界がそこには拡がっています。もはや「仕事術」と言っただけでは具体的な何かを指し示すことはできず「パソコンを使った仕事術」とか「教師のための仕事術」というコンテキストの限定が必要でしょう。
しかしながら思い返してみると、2000年から2010年頃まではそうした限定無しに「仕事術」という概念が成立していたような感触があります。その言葉は何か一つのものを指していた。おぼろげにそんな記憶が思い出されます。
ライフハックというキーワードよりも少し前にあり、そのブームとともに存在していた頃の「仕事術」。私たちはそこにどんな夢を描いていたのでしょうか。
■「仕事術」は誰に向けて発信されていたのか
一般的に、「仕事術」という言葉で連想されるのはデスクワーカーでしょう。その人たちの業務上の工夫がフォーカスされたもの。狭く捉えれば「上司にゴマをする技術」などは仕事術には入っていなかったはずです。そうではなく、自分の力で仕事をする(成果を得る)ための方法が注目されていました。
ということは、なんであれその人たちに「仕事上の裁量」があったことが想像されます。裁量がなければ工夫の余地もありません。そして、そうした裁量を持っていたのが、デスクワーカー≒ホワイトワーカー≒知識労働者であることは疑いないでしょう。
実際、P・F・ドラッカーは、すべての知識労働者は「自らのエグゼクティブである」と提唱しています。裁量のないエグゼクティブなど存在しないわけですから、知識労働者は「自分の仕事の裁量を自分で持つ存在」だと言い換えられるでしょう。
つまり、ある時代のデスクワーカー≒知識労働者に向けて、「仕事術」は発信されていた。まず、そんな考えが浮かびます。
■会社組織の一員ではなかった「仕事術」の提唱者
その考えは、別の方向からも補強できます。それは、そうした仕事術の提唱者が会社組織の一員ではなく、フリーランスやそれに類する体制で働いていたことです。
素朴に考えれば、フリーランスの「仕事」と会社組織の「仕事」は異なるでしょう。それもとびっきり異なることの方が多いはずです。でも、「仕事術」という“共通言語”が存在していた。それは、二つの仕事の中身に似ている部分があったからです。
フリーランスもまた、自らのエグゼクティブです。自分の仕事の裁量を自分で握っています。だからこそ、工夫の余地がある。
そのような姿勢を、会社組織のデスクワーカー≒知識労働者も学ぶことができた。
もちろんそのような「仕事」は、世界に存在する仕事全体のごく一部でしかありません。その限られた集団が、ノウハウの流通を通じてクラスタを形成していた。そういう時代だったのでしょう。
この記事の著者・倉下忠憲さんのメルマガ
■あらわになる二つの「仕事」の大きな違い
現代においても、同じような共通性を維持しているデスクワーカー≒知識労働者もいるとは思います。そういう人たちはフリーランスと「仕事術」について話を続けることができるでしょう。
しかしながら、ぐんぐんと裁量が減っている職場もあるはずです。そうした職場では工夫する余地は少なく、一人だけ工夫をすることで周りから反感を買う可能性すらあります。それでは為せる仕事も為せなくなるでしょう。
ここにきて、二つの「仕事」の大きな違いがあらわになります。
フリーランス的仕事では、基本的に自分が成果を挙げることに注目すればいいわけです。複数人で仕事をすることがあっても、チームでの成果に責任を負う必要はありませんし(それはチームの責任です)、後輩の指導といった「自分以外の」課題を抱える必要もありません。上司からの評価、みたいな話もまったくスルーできます。ややこしい仕事は、お金を払って外注することすら可能です。
翻って、組織の仕事はどうでしょうか。自分だけが仕事をできてもうまい結果になる保証はなく(ひたすらに仕事を振られてより忙しくなる状況が未来視できます)、チームとして成果を挙げる必要があり、自分以外の人間をケアすることも仕事の範疇に入っているでしょう。個人の裁量で外注なんてもってのほかです。
2025年の現代において、組織内の「仕事」で何が評価されるのかは私はぜんぜん推測できませんが、お気楽なフリーランスと同じではないだろうことは簡単に推測できます。
そして同じ組織であっても部署によって違いがあり、同じ職種であっても組織によって違いがあり、その人のキャリアプランや家庭環境によっても違いがある。
それが現代日本における「仕事」でしょう。それらを一刺しで貫ける必勝の剣などありようもありません。
■「仕事術」を含むノウハウ全般とつき合うために必要な姿勢
であれば、「仕事術」について論じるのは無意味なのでしょうか。
もちろんそんなことはないでしょう。「教師の仕事術」のようにコンテキストを限定すれば建設的な話はできるはずです。実際、2000年から2010年くらいの仕事術も「知識労働者の仕事術」とリネームすれば成立する話はいくらでもありそうです。
先ほど出てきた上司との人間関係を構築することも「仕事術」の一部になるでしょうし、できるだけさぼって定時で帰れるようにすることも「仕事術」に含まれるべきだと私は思います。
単一のキーワードで括れる(英語的に言えば大文字の)「仕事術」はもはや成立しなくなったでしょうが、逆に、さまざまな状況や目的に合わせた多数の「仕事術」が必要とされるようになってきている。それが現代的状況なのだと思います。
生産性は1ミリも上がらないけども、職場で働くときに少しでも居心地良くやっていくための方法、といったものもれっきとした「仕事術」です。
そのように全体を広く捉え、その上でコンテキストを限定していく。そういうつき合い方がよいかと思います。
でもってこれは「仕事術」だけでなく、ノウハウ全般にも言えることでしょう。逆に言えば、何かしらのノウハウを見かけたときに、「これはどんなコンテキストで有効なノウハウなのだろうか」と考えるのが、多様性かつ情報過多な時代には必要な姿勢になりそうです。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2025年2月17日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をご登録ください)
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