『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第1号より一部抜粋
あるきすと平田とは……
平田さんは、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩きつづけ、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけています。その方面では非常に有名な人ですが、普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。
第1回 キョーレツ! ユーゴ内戦バスの旅
ヨーロッパの地中海沿いを徒歩で旅行し、イタリア半島をグルッとまわったあとは地つづきのユーゴスラビアを歩くつもりだった。ところがちょうどそのころ、当の連邦国家ユーゴスラビアはソ連崩壊の余波を食らって分裂してしまう。いわゆる「ユーゴ内戦」だ。
はたして戦争をやっている国をバックパッカーがのこのこ歩けるのか。とにかくこれは一度、現場を見にいかなければなるまい。
そこで1991年6月、僕はいったん徒歩旅行を中断して中部イタリアのペスカーラから船でアドリア海を渡り、ユーゴから分離独立したクロアチア共和国の都市スプリトに上陸した。
人口20万人の規模のわりには静かな町で、対岸のイタリアの人口12万人の港町ペスカーラではちょうどサッカーの地元チームがセリエBからAへ昇格して市民がドンチャン騒ぎしていたのと対照的だった。
街なかでは露店の服屋が大量の迷彩服や軍帽、軍靴、ベルトなどを並べ、通り沿いの建物の窓から新国家クロアチアの真新しい国旗が垂れ下がり、商店の大きなウインドーガラスには飛散防止用のガムテープが縦横斜めのユニオンジャック型に貼りめぐらされている。市内の宿泊施設はほぼすべて戦争避難民のシェルターとして代用されていたため、僕は一般市民のお宅に間借りするしかなかった。
なかでも度肝を抜かれたのは、黒いタンクトップに迷彩柄のズボン、長髪に赤いバンダナのランボーみたいな男たちが、ショットガンやライフルを肩から下げたり右手で無造作に振りまわしたりしながら闊歩する姿だった。
町は戦場と化していなくても、緊迫感はひしひしと伝わってくる。
ところで僕はできるだけ海伝いに歩きたいので、スプリトからプロチェまでの100キロほどを海沿いにバスで南下してみた。
プロチェは海に面した小さな町で、入江に近い警察署前には高さ1メートル以上も土のうが積まれ、大砲が1門、入江に向けて設置されている。沖合に敵艦が現れたらこれで応戦する気らしいが、たった1門とは心もとない。
さらに兵士の話では、プロチェの南にある世界遺産都市ドゥブロブニクは敵に艦砲射撃を浴びせられていて、そこへ通じる交通手段もすべてストップしているとのこと、事態はおもった以上に深刻だった。
つまり、クロアチアの海沿いを能天気に歩いて旅するなんて、不可能だということだ。残念だが、ちゃんと自分の目で状況を確認したんだからあきらめもつくというもの。ここはルートを変更して徒歩旅行をつづけよう。
そんなときに別の兵士が、プロチェから海伝いに南へは行けないが、内陸のメトコビッチへ向かうバスはあるという。メトコビッチは当時の主戦場ボスニア=ヘルツェゴビナとの国境に位置する山間の町で、そもそも僕の歩くルートには入っていないが、せっかくここまで来たので足を伸ばしてみることにした。雑誌記者時代に湾岸戦争中のイスラエルを取材した経験があり、実はキナ臭いところが嫌いでない性分だし。
青々とした水が滔々と流れるネレトバ川沿いに20キロほど田園地帯を走ると、バスはメトコビッチに到着した。人口1万5000人の小さな町なのになんと兵士の姿のめだつことか。さらに街なかの建物の白壁には蜂の巣状に無数の弾痕が残り、ガラスどころか窓枠まで吹き飛ばされた家屋も多い。窓の応急処置はビニールかベニヤ板張りだ。
町の中心から国境までは直線でたった1キロ。ときどきセルビア人勢力は国境の向こうのボスニア=ヘルツェゴビナ側の陣地からメトコビッチの中心めがけて迫撃砲を撃ち込み、自動小銃を乱射してくるという。その痛々しい爪あとが町じゅうで見られた。スプリトよりプロチェで、プロチェよりメトコビッチで戦争の緊迫度は増していた。
バスターミナルに戻ると、兵士たちが三々五々しゃがんでバス待ちしていた。僕はそろそろスプリトへ戻るつもりだったが、一部の兵士がニヤニヤ笑いながら手招きし、こっちのバスに乗れという。それはなんと戦争まっただなかのボスニア=ヘルツェゴビナの前線付近へ向かう、軍が徴発した3台のバスだった。
おいおい、日本人旅行者が乗っていいのかよ。躊躇していると兵士の何人かがぼくの腕を引っぱり、とうとうそのうちの1台に乗せられてしまう。30人ほどの乗客は全員迷彩服姿の兵士だが、僕が乗ったことをだれもとがめないし運転手も笑っている。知ーらないっと。
まもなくバスは出発し、2、3分後には検問も通過してしまった。こんなバスが3台連なって山中の狭い間道を右に曲がり左に折れして分け入り、標高を上げていく。
何人かがカタコトの英語をしゃべるので話したところ、彼らは全員クロアチア共和国軍の志願兵で、隣国ボスニア=ヘルツェゴビナでセルビア人勢力と戦っている同じクロアチア人や同盟関係にあるイスラム教徒へ、食料や医薬品・衣類その他の生活物資、さらには武器と弾薬まで運んでいるという。最後の武器と弾薬の供給は国際法上、違法らしいが、彼らは同胞救援のために命がけでこんな仕事に従事していた。
そんな志願兵に28歳のマテがいた。酒に酔ってぐでんぐでんで、とにかくはしゃぎまわって騒々しい。42歳の男が耳打ちする。
「マテにも妻と1歳の赤ん坊がいる。町でしこたま飲んでキャンプに帰るんだけれど、要するに怖いのさ。俺もひとまわり若ければあいつ同様、酒に逃げていたよ」
また志願兵の中にはイギリス人、ドイツ人、フランス人、アルゼンチン人、ハンガリー人などの外国人もいるそうで、実際、このバスには腰のベルトにセルビア製手榴弾を2個ひっかけたポーランド人兵士が乗っていた。
「クロアチア人はバカだ。やりたくもない戦争なんかしやがって」
「じゃあ、なんでポーランド人がクロアチア人と一緒にセルビア人と戦うんだい?」
「俺はただ戦争が好きだ」
そう答えてニヤッと笑った。
ちなみに志願兵の月給は100米ドルだそうである。彼らのほとんどが家族持ちで、もっと稼げる仕事に就いている。それなのにみずからの意志で、薄給で命を危険にさらそうとしているのだから酔狂といえばこれほど酔狂なこともないが、僕が話した全員が口をそろえて志願した理由を、
「家族を守るため」
と答えていたので、独身の僕でも彼らの気持ちがわかる気がする。
車内で彼らと打ち解けると、徐々におふざけがエスカレートしだした。僕はみんなから、これを持て、これも持てと、ルーマニア製とセルビア製の自動小銃を抱えさせられ、さらにピンを抜いたら5秒でドカンといくセルビア製の手榴弾をトレーナーの首からぶらさげられた上、その格好で隣の席の女性志願兵の肩を抱いているところを写真に撮られてしまった。
こんなことをやっているうちにバスは1時間半後、グミのような潅木の生えた山中の猫の額ほどの空き地に到着した。すでにここはボスニア=ヘルツェゴビナ内だという。あらら、国境を越えてしまっていたのね。
3台のバスから下車した志願兵は総勢50人ほどで、ここからその先にあるキャンプまで救援物資を歩いて運ぶのだ。
そして僕は彼らから二者択一を迫られる。このまま折り返し運転のバスで引き返すか、一緒にキャンプまで行くか。
「おまえは民間人だ。もし敵に攻撃されたらみんなでおまえを守るから心配いらない。一緒に来いよ」
キナ臭いところが好きな僕のこと、この言葉に食指が動かないわけがない。ただし、正真正銘の戦争の中へのこのこやってきた外国人旅行者に対して、こうまで断言してくれる彼らの言葉はこのうえなくうれしかったが、家族を守るために戦っている彼らがまったくの部外者である僕を、命を賭して守るべき必要性などどこにもない。僕は調子に乗りすぎたようだ。
「戻ります。メトコビッチへ戻ります。みなさんも気をつけて」
何人かと連絡先を交換し、固い握手やら抱擁やらを交わすと、僕はふたたびバスに乗った。車内は運転手と僕のみ。運転手は僕への好意から、メトコビッチではなくなんと150キロ離れたスプリトまで送るという。3台のバスが車間距離を十分にとりながら狭い山道をくねくねと進む。僕のバスはまんなか、2台目である。
そしてこの日の最大のピンチは、バスがさほど進まないうちに発生した。前方から先頭バスの運転手が両手で頭を抱えながら戻ってきた。口をもごもごさせるだけでなにもいえない。なにかよほどショックな出来事が起こったらしい。
僕と運転手は不安な気持ちで前方へ走っていくと、そこには右の後輪を路肩から大きく踏みはずし、道路脇の潅木に寄りかかって斜めになったバスがあった。前へまわると、左の前輪はずいぶんと浮いてしまっている。よく山肌を転げ落ちなかったものだ。
先頭車がこれではコンボイを組んだ後続車も立ち往生するしかない。無線連絡でキャンプから車で十数人の兵士が駆けつけ、全員で持ち上げようとしたりワイヤで連結して牽引したりしたものの徒労に終わる。さてどうしたものかとみんなで思案しているところへ、なにやら轟音が。
ここからは当時の日記を転写したい。
なんだ、あの轟音は。ゴーーーーッ。ジェット機が飛び立つときの音のようだぜ。それにつづく、ゴンーッ、ゴォーン、ゴンというのはなんだ? とにかく僕はそんな状況の中で(日記を)書いている。山の中、鳥の鳴き声がなにごともないようにあちこちから聞こえる。あ、銃声だ。山にこだましてよく聞こえたぞ。そんな近くでやってんのか? 勘弁してくれえ。
兵士たちが脱輪したバスを相手に四苦八苦しているさなか、僕はそのあたりにしゃがんで日記を書いていたらしい。彼らの話では、セルビア軍とクロアチア人・イスラム教徒連合軍による迫撃砲の応酬戦だとか。鈍い音はその着弾音だ。さらにダダダダダダッという銃撃音が混じって聞こえていた。
十数人の兵士たちは万が一の戦闘に備えるため、その場を離れてキャンプへ戻っていく。これでは僕はどうやって山を下りればいいのだと焦っていたところへ、前方からニッサンに乗った救いの神が現れた。サンディーと名乗った彼はマイカー持参でクロアチア軍に志願していた。
「どうせ脱輪したバスが通せんぼしてキャンプまで車で行けないのだから」
と流暢な英語でいうと、僕の窮状を察してメトコビッチまで車で送ったうえに宿の手配までしてくれたのだった。山から下りるあいだじゅう、彼のニッサンのカーステレオから「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が流れていたのを覚えている。
さらに、サンディーが手配してくれた宿で泊まり合わせた避難民の子どもたちが、ずーっと夜泣きのしどおしだったことも思い出す。
バスでボスニア=ヘルツェゴビナに入った日の2日後、陽気なイタリア人でごった返すペスカーラに戻ってきた。しかし、ボスニア=ヘルツェゴビナの山中で聞いた不気味な迫撃砲の鈍い轟音と銃撃戦の乾いた音は、それから2週間ものあいだ毎晩のように夢の中でよみがえり、とても安眠などできるものではなかった。
ただ、たとえそうだとしても僕はただの野次馬、戦争の犠牲者であるあの子どもたちの心の傷に及ぶはずもない。
『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第1号より一部抜粋
著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。
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