2011年3月11日に発生した東日本大震災から15年を経過し、震災をどのように伝え、記憶を継承していくのかという方法は、時間の経過とともに変化が求められています。メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんが主催の気仙沼線を題材に続けられてきた写真展では、今年は「音」というテーマを掲げ、震災の記憶を新たな視点から伝えようとしている。
311を伝える基点の変化と展望-気仙沼線写真展の展示から
2011年3月11日の東日本大震災から15年は、流れた歳月がそれなりに意味を帯びてくるようになった。
被災地では、当時幼かった子どもたちが成人になり、社会人にもなり、幼い記憶は大人になった今でも重くのしかかっている言説が報道で紹介されている。
出来事の発生と共に忘却が進む。
それは記憶の風化となって忘れ去られ、また同じ悲劇を繰り返す─。
それは人類と社会の愚行であり、記憶し続けようという社会の合意は生き続けているから、私自身も「気仙沼線写真展」を通じて、ほんの少しでも記憶の継承、知見の蓄積に努めてきた。
振り返ると、震災を伝えようとする手法も年々変化する必要を感じており、学生に向けての伝え方も、写真展の展示方法も、今とどう結びつけて記憶していくかが問われているように思う。
気仙沼写真展の今年のテーマは「おと」。
2月のメルマガで展示の説明を「音のない写真が示す情景からそこにあっただろう音を連想させる絵を選定し、見る人と見えない音でつながろうとの趣旨」と書いたので、今回は私の中の音の話である。
東日本大震災時、東京にいた私はすぐに被災地に自家用車で向かったが半日経っても渋滞で都内から出られず、レンタルバイクを探して電話で各所に問い合わせてもバイクにはたどり着けず、結局関西から緊急物資の水を積んで新潟経由で宮城に入るトラックに、新潟で乗せてもらうことで、仙台にたどり着いた。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
震災から数日後のことである。夜中に新潟で乗せてもらい、仙台に着いたのは朝方。
トラックから降りた仙台市内には「おと」がなかった。
平和な静かな朝、ではなかった。
生活する音が消えて、死んだようになった街、「ゴーストタウン」という言葉が浮かんだのを覚えている。
震災の後で誰もがひっそりし、仕事に行く人もいないし、鳥さえも囀らなかった。
仙台市内の実家で家族の声を聞き、避難所になった近所の小学校で避難している方々の声を聞き、そして沿岸部に行って遺体捜索をする消防たちの声を聞き、震災に音が授かった。
音とは、つまり生きていることの証であることを実感した。
震災に伴う東京電力福島原子力発電所の事故から2年後、双葉町を訪れた時も音のない世界がそこにあった。
人が避難したまま止まった町の時間。
町は何の音も発しなかった。
以前、私が取材をしてオンエアしたラジオ番組では避難地域になった富岡町で大晦日と新年に鳴り響いた除夜の鐘を紹介したこともあった。
震災前の戻らない風景には音があったこと、誰かが動いて鳴らして音が響くという当たり前の原理に懐かしさを覚える時、それを望郷と呼ぶのは、石原吉郎の詩を想起させるノスタルジーかもしれない。
人と音、そして思い出はつながっている。
私自身、被災はしていないものの震災発生から比較的に早い段階で被災地に入ったことで、自分なりに音に接することができたし、関わり合うこと、何らかの活動をし続けることで変化を私なりに受け止め、それを音に変換することもできた。
被災者の困難な状況を見聞きした者としても、震災が忘却されることは避けたい。
その手法として、震災を音として記憶することは有効であると考えている。
だから、震災について学生に伝える講義「ケアメディア論」では、震災の音に着目している。
震災前の音となくなった音。
震災によって戻らない生活と音、そして、社会が変わったことによる音。
それは震災を記憶するだけではなく、事象に耳を澄ます、という行為につながる。
そこから見える風景を心に刻み、311が教訓として継承されることを学生に期待しているが、若い感性は思いのほか敏感に反応し、自分なりの震災のストーリーを刻んでいるようだ。
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