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49度の灼熱インドを歩いて横断した男に襲いかかった人喰いトラ騒動

前回、インドのカレー屋で理不尽な扱いを受けブチ切れ警察に通報したエピソードを披露してくださった、ユーラシアを歩いて旅する男・平田さん。ですがインドは容赦しません。現地の人も1日数百人単位で亡くなる49℃の酷暑、挙句は人食い虎まで登場し…。平田さん、無事にインドを抜け切れたのでしょうか。

あるきすと平田とは……

ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけている、その方面では非常に有名な人だったりします。普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第6回 暑くて辛くてしつこいインド編 その2

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第6号より一部抜粋

いやあ連日暑い。昔、藤山一郎も歌ってたよな。

♪夏が来~れば思い出す~ 遥かなインド カレーの道って。

ということで前回に引きつづき、今回もインドを吊るし上げ、いや掘り下げてみたい。

これも94年にニューデリーで出会った日本の男子大学生の話。

チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の思想に感銘を受けた彼は、ダライ・ラマが率いるチベット亡命政府のあるインドを初の海外旅行先に選び、バンコクから飛行機で首都のニューデリーに飛んだ。日本では、インドへ行ってもダライ・ラマ謁見は不可能といわれていたので、西部のラジャスタン州の砂漠地帯やタージ・マハルのある中部のアグラ、ヒンズー教最大の聖地バラナシなどをバックパッキングして、10日後に同じニューデリーから出国するつもりだった。

ところが入国翌日、ニューデリー駅前に林立する「国営旅行代理店」のひとつに立ち寄ってみると店長から、日本では不可能といわれていた「ダライ・ラマ謁見ツアー」はあるといわれた。全行程1週間のワゴンバスの旅で、宿泊費・食費・交通費・英語のガイド料すべて込みで500ドル(当時レートで約5万円)。インドの物価水準をよく知らなかったが、ニューデリーからダライ・ラマの住む北部のダラムサラまでは直線でも400キロ以上離れているので、1週間の旅行に500ドルならそんなに高くないと判断、さっそく翌朝出発のツアーに申し込んだ。

横転事故起こしてひと休み。快く撮影に応じてくれました。はあのんきだねーのんきだね。

ワゴンバスには運転手と英語をしゃべるガイド、自分以外に4人のインド人客が乗り合わせたものの外国人は彼ひとり。毎晩安宿だし毎食安っぽいカレー定食ってところがちょっと不満だったが、同行者はみんな気さくだったうえ、ダラムサラでは念願のダライ・ラマにも謁見できて大満足。1週間後、一行は無事にニューデリーへと舞い戻り、代理店前で解散した。

ところが仲良くなった「乗客」のひとりにお茶に誘われて茶店に入ったところ、「乗客」はいきなり胸元で合掌して「アイム・ベリー・ソーリー」を連発して話し出した。

「いつ打ち明けようか悩んでたんだけど今まで言い出せなくて。実はオレ、客じゃないんだ。オレだけじゃなくてあのワゴンバスに乗っていた運転手もガイドもほかの客も全員、旅行代理店に雇われたんだ」

意味がわからずポカンとして聞いているうち、次第に全容がわかってきた。

そもそも「国営」ではないモグリの旅行代理店に日本人がダライ・ラマに会いたいって訪ねてきたもんだから、店長がこれはカネ儲けできると閃いてとっさに企画したツアーだそうで、運転手に通訳兼ガイドだけでなく、体裁を整えるために暇なインド人4人を雇って「乗客」に仕立て上げ、1週間寝食を共にさせた。ダライ・ラマとの謁見については、当時ダライ・ラマは曜日を決めて庭かどこかに一般の訪問客を集めて面会していて、彼はその場に連れていかれたということも、「乗客」の口から教えられた。

「だましてごめんなさい」

彼は最後にもう一度謝って、逃げるように帰っていったという。

つまり、ひとりの日本人学生が支払った500ドルで、サクラになった6人のインド人が1週間タダめしを食らい、宿に泊まり、レンタカー代やガソリン代もカバーした上、代理店としてはありがたい商売にもなっている。それに大学生はこの1週間のツアーに満足している。だれも損をしていない。

「最後にタネ明かしされなければ、なにも疑うことなく帰国していましたよ」

あれ、ここまで書いてみて、これってなんかいい話だなあ。手間のかかったイメクラみたいだ、500ドル(5万円)で1週間も夢を見ていられたんだから。

とにかく、インドの人件費の安さに驚くが、500ドルを売り上げるためにわざわざ暇なインド人6人をサクラに仕立て上げるところがエライじゃないですか。

それでは僕自身の話に移りましょう。

1994年4月9日、インド中部のマディヤ・プラデシュ州の国道3号線を南に向かって歩いていると、前方からちゃっちい布製のリュックを背負った小柄な男がやはり歩いて北上してきた。口ひげを蓄えた精悍なツラがまえのアラサー男だ。インドにはサドゥーと呼ばれるヒンドゥー教の修行僧や遊行僧がたくさんいて、黄や赤やオレンジ色のルンギー(腰巻)に上半身裸か薄手のシャツを羽織って杖や錫杖のようなものを握り、裸足か安物のビーサンをつっかける以外はほとんど所有物を持たずに徒歩でインドを遍歴している彼らによく出会った。たいがい痩せ細って枯れ枝のような体格をしていた。

が、前方から来る男は白のポロシャツ、白のスラックス、白のズックに白のリュックと全身ホワイト野郎で、「苦行中の身です、おめぐみを」という哀れっぽさが微塵もない。いたって明るいスポーツマンといった雰囲気だ。

そしてリュックに貼られたプレートには英語で、

「All India tour on foot –85,000km–with God(全インド徒歩旅行8万5000キロ、神とともに)」

と記されていた。

キラン・マスケと名乗ったゴア出身の彼はありがたいことに英語が流暢で、なんと彼も僕同様あるきすと、つまり徒歩旅行者で、インド国内の全市町村をひとつの漏れもなく訪ねる旅の最中だというではないか。僕は自分を棚に上げて、なんと酔狂なヤツとつぶやいていた。

僕が南下、彼が北上だったからお互いのその日の目的地は違ったけれど、立ち話をして別れて15分も歩いたところで人生最悪の暴風雨に遭遇してしまう。街路樹にとっさにしがみついたから助かったものの、もしつかまるものがなければどこまで吹っ飛ばされていたか知れない。それほどの突風をともなったスコールだった。

しかたなく先へ進むのを断念して宿のあるグナという町まで戻るためにバスに乗ったところ、偶然にも途中からキラン・マスケも乗ってきたではないか。

その夜、僕は彼を食事に招待し、食後も宿に寄ってもらって夜更けまでいろいろ話した。

彼は20歳のときに外交官になったものの、上司からたびたび賄賂を要求されてバカバカしくなって職を辞め、全国を歩いてまわる旅を始めた。それからすでに10年、7万キロを歩き、あと2年で1万5000キロを歩けばインドの全市町村を歩いて訪ねたことになるのだという。ちなみに僕はこの時点でポルトガルから歩いてきた距離が1万3300キロ強しかない。同じ徒歩旅行者として彼の歩いた距離が半端じゃないことはすぐにわかった。

さらに驚いたのは、彼の旅を金銭面でバックアップしているのは「スポーツ省」という中央官庁で、そのうえ毎晩の宿泊先は各市町村の警察署、食事も警察でご馳走になることが多いという。

目つきの悪いおっさんたちが彩色して売っているもの、それはヒヨコ!95年ケララ州で。

日本に当てはめると、ある酔狂な男を文部科学省が金を出して日本全国の市町村を歩いて旅行させ、その男の食事と宿泊場所を各都道府県の公安委員会が提供するという構図になる。やっぱありえん。外務省の上司に賄賂を要求される話も含め、さすがに混沌の国インドだ。

すでに8割以上の市町村を訪ねたキラン・マスケの話がおもしろくないわけがない。とくに彼はセブンシスターズと呼ばれるイン7つの小さな州(ナガランド、マニプール、アッサム、ミゾラム、アルナチャル・プラデシュ、トリプラ、メガラヤ)がおもしろいという。

住人の多くは少数民族で、僕たちが想像するあの濃い顔のインド人ではなく、淡白な東アジア人の風貌をしている。もっともユニークだったのはナガランド州のザカマ族の話だ。現地語でジービーと呼ばれるリーダーが絶大な権限を持ち、ザカマ族の法律と慣習に則してジービーが決定したことには、州警察や州政府も口出しができない。

そして圧巻はジービーが死去した場合、新らしいジービーを選出する方法だ。成人男子が広場に一堂に会し、全員パンツを下ろして互いにチンコの毛を数え合う。そして最多チン毛保持者、つまり股間がもっとも毛深いヤツが次期ジービーに選ばれるんだそうだ。

能力主義とか年功序列とか、そんな生やさしい選考基準ではない。単純にチン毛の本数でニューリーダーが決まるのだ。ある意味もっとも客観的で、あとで不正があったなどと文句のつけようもない。

そういえば近々どこかの国でも新しいリーダーが選出される予定ですが、だれがなっても同じとか候補が小粒とか世間は陰口を叩いている。いっそのこと、ザカマ族の陰毛選手権を拝借したらどうだろうか。あえてオープンにしろとはいわない、というか絶対にオープンにしてほしくないので密室で決めてほしいが、とにかくお互い納得のいく画期的な選抜方法ではないか。

宿の僕の部屋で濛々と紫煙を吐き散らしながらおもろい話を聞かせてくれたキラン・マスケだったが、僕がポルトガルからインドまで14ヶ国を歩いて旅してきた話をすると、

「あー外国に行きたい。外交官になったのも外国に行きたかったからなんだ。でも僕の収入じゃ、これからだって海外旅行はできない。外国を歩いて旅行してきたヒラタがうらやましい」

そういって溜め息をついた。

日本が高度経済成長期を経て円が外国通貨に対してものすごく強くなったおかげで、僕たちは当たり前のように海外へと飛び出していける。でも当時も今も多くのインド人にとって、外国へ行くというのは出稼ぎに行くこととほぼ同義で、僕たちのようにあっちこっちを物見遊山してまわれるほど裕福なインド人はほんのひと握りなのだ。

インドでなくてもどこの国へ行っても、僕は貧乏旅行をしているんだといってみたところで、現地の人々は「貧乏旅行でも1年も2年も外国を旅行できるんだから、金持ちだ」という発想になるのもうなずける。たしかにポルトガルからトルコのイスタンブールまでの1年4ヶ月の旅で300万円の貯金を使い果たしていた。旅程の長さはともかく、旅費が300万円といえばやはり贅沢な旅行だろう。

見にくいですが、ほんとのカラスの行水。カラスも暑くてたまりません。94年ゴア州

ところで前回触れたインドの猛暑について書いておきたい。中部から南部では、乾季の終わりごろに日中の最高気温が40℃を超える日はザラだ。僕が実際に体験した最高気温は摂氏49・2度。当時使っていたカシオの腕時計「プロトレック」が表示した気温だ。プロトレックの表示温度については手首に巻いた状態だと気温より体温を測ってしまうといわれるが、体温49・2℃はありえんだろう。直射日光を浴びて歩いている路上での気温である。

日本の猛暑の最高気温プラス10度ってところだが、こうなると連日テレビニュースでも新聞でも熱中症で死亡するインド人が跡を絶たないと報道され、まあ人口が日本の10倍近くいるとしてもインド全土で毎日200~500人単位で死亡していたぐらいだ。この国に来るまで、インド人はもともと暑いところに生まれ住んでいるから暑さには慣れっこだろうと勝手に想像していたが、やっぱインド人でも暑いのだ。

ではこんな冗談みたいな高温の中を歩いているとどうなるか、実体験はこうだ。

とにかくやる気が失せる。脳みそが歩けと指令を出しても足がいうことを聞かない。全身ストライキ状態で、早く木蔭に入ってくれと逆に全身からせがまれる。

マハラシュトラ州カンダナ近郊。いや~暑くて暑くて汗だくだく意識朦朧。

しかたがないのでガジュマロの木蔭に座り込んでゼエゼエ荒い息を吐いているうちにまどろむ。顔をなにやらザラッとしたものでなでられて飛び起きると、水牛の子どもがオレの顔を舐めていた。そう、牛タンってのはけっこうザラザラなんです。水牛の子どもは塩分が欲しくて、汗ダラダラの僕の顔をベロンと舐めにきたらしい。

また、大汗をかくので当然水分を補給する。歩き始めから歩き終わりまでに多いときで4リットル以上を摂取するのに、一度もオシッコをしないときがある。全量、汗になって排出される。たとえオシッコが出ても血尿だったこともあった。

それでも無理をして歩きつづけていると、目の前の景色がパッと消えてアナログテレビの夜中の砂嵐みたいなものが見え、足がふらつき、意識が遠のいていこうとする。

この時点でかなりヤバイので、すぐに道端のガジュマルの下へと逃げ込んで、手持ちの水――といっても摂氏40度のぬるま湯だが――を頭からぶっかけて髪の毛を掻きむしる。これで頭部の風通しがいくぶんよくなるのだ。

どうしても涼をとりたいときは、汗の染みこんだフェイスタオルをグルグル振り回す。ちょっと体力を使うけれど、しばらく振り回したタオルは水分が気化熱を奪って蒸発していくのでひんやりするのだ。

そして、35℃以上の熱帯夜、エアコンのない宿に泊まるのもひと苦労だった。僕がインドを歩いた94~96年当時、田舎ではめったにエアコンを見かけなかった。宿にもエアコンのないところが多く、夜通し暑熱と蚊の大群や南京虫と戦ってうつらうつらまどろむしかない。

インドの安宿にエアコンはなくても、日本の銭湯の脱衣場にあったような大型のファンが天井でビュンビュンうなりながら高速回転しているのが唯一の救いだった。しかし天井のファンは部屋の熱気をかき回してベッドに横たわる僕に吹きつけるだけで、風に涼気はない。エアコンの室外機や冷蔵庫の後ろ側で寝ているのと同じでちっとも涼しくないのだ。

そこで、洗濯用のバケツに水を満たしてベッド脇に置く。スッポンポンでベッドに横たわる。タオルをバケツにつっこんで濡らし、緩く絞ってからだじゅうを拭う。すると、風邪をひくんじゃないかとびっくりするぐらいにからだ全体が冷えていく。天井のファンが高速回転しているおかげで、からだから気化熱を奪っていくのだ。

しかし残念なことにこの快感は5分しか保たない。5分後にはからだの表面が乾いて熱を奪ってくれなくなるのだ。なので、涼を得つづけるには5分ごとに同じ動作を繰り返さなければならない。運が悪いと、朝までこれをやっている。これでいったいだれが熟睡できようか。

こんなだから翌日は使いものにならず、またもや道端のガジュマロの木蔭でゼエゼエ荒い息を吐くことになるのだ。

そして僕はインドの徒歩旅行を2年連続で途中放棄して日本へ帰った。インドの猛暑と暴風雨の季節は日本で過ごして、穏やかになるころにまたインドへ戻り、前年歩き終えていた場所まで電車やバスで移動して、そこからまた歩き出す。

そんなわけで、あの逆三角形のインド亜大陸を1ミリの途切れもなく6484キロ歩き終えるのに210日間かかったが、2度断念して帰国しているので、実際にはパキスタンとの国境を越えてインドに入国してから隣国バングラデシュとの国境にたどり着くには、3年という月日が必要だった。

ゴア州カナコナ近郊のよろずやさん。バナナしか売ってなかった。

ところで暑さと辛さとしつこさのインド辟易3点セットと戦いつつ歩いていた僕に、94年5月、新たな壁が立ちはだかった。それは「人食いトラ現わる」の新聞記事だった。

ボンベイ(現ムンバイ)から北東へ200キロほどいったナーシクという町で偶然買った地元英字新聞トップページの記事によると、ナーシクから北西に約50キロ離れたペート県で人食いトラが出没して1ヶ月間で15人が食い殺され、まだ退治されていないため地元はパニック状態だというものだ。

うーむ、インド、次なる敵はベンガルトラか。次々に新手をくり出しよるわい。

念のため、手持ちの国語辞典で「虎」を調べたところ、

「ネコ科の猛獣。アジア特産で体長2メートルぐらい。全身が黄色で黒い縦じまがある。鋭い爪と牙をもつ」(講談社学術文庫「国語辞典」)

と書いてあった。

体長2メートルか。馬場より小せえな。鋭い爪を持つだけならフリッツ・フォン・エリックと五十歩百歩だが、牙もあるからブラッシーの狂気も備えている。おまけに全身が黄色で黒い縦じまがあるなら、タイガーマスクの敏捷性も兼備しているのか。総合するとかなり恐ろしいプロレスラーだ。

となると、ベンガルトラに対処するにはどうすりゃいいのだ。死んだふりか。大木の幹をぐるぐる周回させてバターにするか。「僕はまずいです」と書いた紙をからだに貼って歩くか。トラなどとうそぶいてもしょせんはネコ科の生きもの、必殺ネコじゃらしでどうにかならんか。

それにしても1ヶ月に15人も食い殺されているってどういう国なんだ。インドには猟友会がないのか。オレの地元富山県の猟友会は優秀で、クマが出たとなったらすぐに退治してくれるぞ。まったくなんて人を食った話だ。

もうひとつ気がかりなのはベンガルトラの行動範囲だ。自分のいるナーシクから恐怖のどん底に突き落とされているペート県まで50キロ。この距離ってベンガルトラにとって近いのか遠いのか。仮に遠いとしても、50キロ離れたところにトラがいるなら、近場に別のトラが生息していたっておかしくあるまい。もしやそいつが虎視眈々と僕を狙っているかもしれないではないか。冗談はさておき、実際のところホンモノのベンガルトラとばったり出くわしたらどうすべきかわからず不安はつづいた。

弁護士ラメシュ氏宅。木っ端小屋みたいな住宅が多い中で、弁護士宅は異色だった。

そんな矢先、ナーシク郊外在住の弁護士ラメシュさん宅でカレー――これがまたキョーレツに辛くて(涙)――をご馳走になり、ベンガルトラのことも教わった。

ラメシュさんによると、人食いトラが現れたペート県は山がちなうえ、実際にベンガルトラが人を食い殺すのはひじょうに珍しいことなんだそうだ。さらに僕の歩く国道3号線はそろそろデカン高原を抜けて平野部に入るため、トラの出没はまず考えられないから安心しなさいと、たいへん心強いお言葉をいただいた。

結局ベンガルトラとのご対面は杞憂に終わり無事にインドを出国できたのだが、その後の旅では、一時帰国したときに友人から護身用にと餞別にもらったペッパースプレーを持参することにした。しかし去年9月の上海到着まで、このペッパースプレーをプシューッとやる機会が訪れないのは喜ばしいことなのだ。

 

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第6号より一部抜粋

著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
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