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しば漬けに秘められた哀しい物語。京都三大漬物の歴史を紐解く

京都名物数あれど、やはり漬物は外せません。そこで今回は、無料メルマガ『おもしろい京都案内』で紐解かれている京都三大漬物の歴史をご紹介。しば漬けにまつわるエピソードは、ちょっぴり寂しくて心を打つものがあります。

京都三大漬け物の歴史

京都の三大漬け物と言えば、「千枚漬け」、「しば漬け」、「すぐき漬け」です。10月になると、京都の漬け物屋さんの軒先に「千枚漬け入りました」の札がかかります。それはまるで、初夏に「冷やし中華はじめました」という紙が壁に貼られるラーメン屋さんのようです。

京都三大漬け物の中で一番全国的に出回っている商品がしば漬けでしょう。発祥は三千院など古刹がある大原で、その歴史はナント800年以上と伝わります。

すぐき漬けの発祥は桃山時代まで遡ることが出来ますが、明治維新までその製造は門外不出でした。そのため、やや知名度は劣るものの、最近は健康食材として、国内外から注目を集めています。

京都三大漬け物の歴史を1つずつ知ることで、今後食べた瞬間に一層美味しさが加わると思います。それではそれぞれの歴史や経緯を見てみましょう!

千枚漬け

千枚漬は、今から約150年前江戸時代後期に生まれました。当時、御所内で江戸時代最後の天皇である、孝明天皇宮中大膳寮(皇室の食事当番)に仕えていた料理人が生み出しました。その料理人の名は、大藤藤三郎といい、聖護院かぶら(大根ではありません)を使った浅漬けを作りました。当時漬け物は保存食として大変重宝されていた時代でした。薄く輪切りにされた大判の聖護院かぶらの漬け物は、見栄えもそれまでの漬け物とは違い、宮中で喜ばれたそうです。

慶応元年、御所から職を退いた大藤藤三郎は、京都市内に千枚漬け本舗「大藤」の暖簾をあげました。この店で売り出された千枚漬けが起源となり、今もなお千枚漬けの本家として約150年間その暖簾と味を受け継いでいます。現在は、中京区麸屋町通錦小路通下がるに本店を構えておられます(京都の台所・錦市場のすぐ近くです)。明治23年に京都で開かれた全国博覧会で全国名物番付けに入選して以来は、需要が急増し今日の千枚漬の地位を築いています。

しば漬け

しば漬けの歴史は古く、はるか平安時代末期まで遡ります。当時、源氏と平氏が戦っていて、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡しました。平家が隆盛を極めた時代は、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われた時もありました。

平家が滅亡した時、平清盛の娘、建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)は高倉天皇に嫁いで皇后という立場でした。建礼門院は、幼子の安徳天皇に、海の底にも華やかな竜宮城というお城があることを話したといいます。そして、母・時子(平清盛の妻)と3人で壇ノ浦の海へ入水したのです。

安徳天皇は子供なので、すぐに溺れて亡くなってしまいました。しかし、建礼門院だけは時の帝・高倉天皇の皇后だったこともあり、敵方の源氏の武士に助けられ都に送られました。その後、建礼門院は剃髪となり、都から人里離れた大原にある聖徳太子が建てた尼寺・寂光院に身を寄せました。

余生は、滅亡した平家一族と亡き幼い我が子を思いながら1人寂しく暮らした様子は「平家物語」にも書かれています。地元大原の人達は、かつて皇后だった建礼門院に少しでも御所での高貴な日々を思い出してもらおうと色々考えました。この地に古くから保存食として作られてきた紫の紫蘇しその葉漬け物献上しました。紫色は皇室でも最も高い位の身分の人が身につけることの出来る色です。建礼門院はこの紫色をたいそう喜び、紫葉むらさきは漬けと名付けたそうです。それ以降、紫葉(しば)漬けの名が定着したといいます。

また、大原は昔から、柴や薪を頭に乗せて売り歩く「大原女」(おはらめ)で有名な場所です。柴の産地でもあることから、柴漬けとも書き表されることもあるようです。しば漬けの里、大原は800年以上経った今も年に1度、紫蘇の葉で見渡す限り赤紫色に染まる時期があります。その光景は大原の里人の昔から変わらぬ優しさと、寂しい余生を送っていた建礼門院の心に火が灯った瞬間を想い起こさせてくれます。

しば漬けは、やはりこの地に本店を持つ創業明治34年の老舗「土井志ば漬け本舗」が有名です。

平清盛の娘として生を受け、天皇に嫁ぎ皇后として過ごした建礼門院は、何不自由なく華やかな人生を終えるはずだったでしょう。しかし、父をはじめ一族は壇ノ浦で滅亡し、幼子と共に入水するも自らは助けられ、その後1人で孤独な人生を送りました。そして亡くなった後も、不幸にも建礼門院は1人寂しく寂光院の側で眠っています。夫である高倉天皇の御陵(お墓)は、清水寺の近くにある清閑寺(せいかんじ)付近にあります。

生前、高倉天皇は小督局(こごうのつぼね)という女性を寵愛していました。このことは建礼門院の父、平清盛の逆鱗に触れ、小督局は清閑寺に出家させられ、この地で生涯を閉じることになります。高倉天皇は遺言により、(皇后・建礼門院ではなく)小督局の墓所近くに葬られ、800年以上経った今も2人並んで眠っています。

しば漬けを食べる時は、1人寂しくしているであろう建礼門院徳子の事が頭をよぎります。

そのような思いからなのでしょうか、京都御所の正門で今でも天皇陛下だけしか通ることが許されない門の名は建礼門といいます。あまりにも寂しい建礼門院の生涯を慰めるべく皇室の配慮なのかも知れません。

すぐき漬け

千枚漬けやしば漬けほど知名度は高くないですが、これがあれば何杯でもご飯が食べられるというほど美味しいのがすぐき漬けです。すぐきはかぶの一種で、上賀茂の地で桃山時代に社家(しゃけ)と呼ばれる上賀茂神社に仕える氏族によって栽培されてきました。江戸時代、すぐき菜は門外不出の固有種として上賀茂で守られて栽培されていました。当時はまだ希少価値の高い高級贈答品としてわずかしか栽培しないものだったそうです。

すぐき漬けが一般に普及しはじめるのは明治以降になってからとのことです。すぐき漬けは、約300年の歴史を誇る、「御すぐき處京都なり田おんすぐきどころきょうとなりた)」が有名です。上賀茂神社の門前、土塀が続く社家町にそのお店はあります。

すぐき漬けは、各社家や農家の室(むろ)で加熱され、乳酸発酵させて作られます。すぐき漬けの中にはラブレ菌が含まれており、近年テレビなどでも取り上げられています。ガン細胞やウイルスの働きを抑制するインターフェロン生産促す効果があると話題になっています。これを期に国内外から注目を集め、最近では知名度が上がってきました。

すぐき漬けは、社家の庭で栽培したことから「屋敷菜」と呼ばれていました。また、御所に仕えた社家が宮中から種子を賜ったから「御所菜」とも呼ばれていたそうです。いずれの呼び名にせよ、大事に育てられ、高級な食材だったことが伺われます。

すぐきの「天秤漬け」(天秤を使って漬ける)は、昭和初期からの製法で、今でも上賀茂地区の季節の風物詩になっています。

京都に足繁く通う前は千枚漬けとしば漬けは知っていましたが、すぐき漬けは知りませんでした。今では毎回買って帰るほどすぐき漬けにハマってしまいました。ネット全国のデパ地下などでもお買い求め出来ると思いますので是非召し上がってみて下さい。これがあれば永遠にご飯が食べられます(笑)。

image by: Tang Yan Song / Shutterstock.com

 

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