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尊氏はこんなにムチャクチャだった。学校で教えてくれない南北朝時代

京都と奈良に2つの朝廷が並立していた南北朝時代。この「異常事態」、歴史の授業ではわずかな時間しか触れられないことがほとんどですが、無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』の著者・伊勢雅臣さんは、「この時代にこそ日本の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる」とし、南朝・北朝それぞれを詳しく解説しています。

歴史教科書読み比べ 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い

後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。この後、約60年間、2つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。

尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、2つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。

(p 70)

これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。

一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。

南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。

 

吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。

(p 93)

何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。

尊氏の策略から始まった南北朝

そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。

九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。

5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。

しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。

後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。

後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。

南朝の全国ネットワーク

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。

東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。

西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。

さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して北朝と対峙していたのである。

「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その1人が北畠親房である。

息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。

延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた「神皇正統記」を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。

「神皇正統記」は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。

(p 249)

南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。

すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである

(p 129)

南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が「神皇正統記で描いた理想によって結ばれていた。

「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。

建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。

正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。

(p 210)

正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。

後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。

以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。

新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。

足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が1つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛謀略裏切りの連続であった。

尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。

尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。

この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。

直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。

尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。

尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏3代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。

和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるということだったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。

足利武士たちの無知と私利私欲

尊皇心道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。

足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。

 

足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。

(p 175)

上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。「神皇正統記」を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。

南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。

「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と

室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く

皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い戦乱の世が続いたのも当然であった。

「物語日本史」の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。

吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。

(p 245)

歴史教育が単なる知識の詰め込みではなく、日本国民としての生き方を考えさせる場であるとするならば、生徒にはこういう指摘にも触れさせるべきだろう。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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