MAG2 NEWS MENU

ユニクロが「安いけどダサい」から脱却できた“常識破りの戦略”

「ユニクロへのイメージが変わっている」こんな話を聞いたことがあるのではないでしょうか? かつては「安いけどダサい」という印象を持たれていたユニクロ。そんなイメージを一気に変えたのは1998年のユニクロ原宿店のオープンだったと、メルマガ『j-fashion journal』で解説しています。ユニクロ成功の秘訣とは一体何だったのか、詳しくご紹介いたします。

1998年はユニクロ元年

私は、ユニクロ原宿店がオープンした1998年ユニクロ元年と認識している。ファーストリテーリングの社史や経営戦略とは関係なく、一般消費者の生活の中にユニクロが入ってきた時期が1998年であり、ユニクロブームに日本中が沸いた年である。

それ以前のユニクロは、中高生向けの安売りカジュアル専門店というイメージだった。それが原宿店で一気に変わる。まず、デザインの絞り込みが行われ、カラー展開、サイズ展開を優先させた。店舗の内装は高級感があり、まさに、「100ドルの商品を販売する環境で10ドルの商品を売る」という80年代の米国SPA「リミテッド」が主張した戦略的VMDを具現化するものだった。

当時の、量販店や専門店は、安価なハンガーラックと棚什器で構成されていた。床もクッションフロア、パンチカーペットが主体であり、天井も基本照明を確保するに過ぎなかった。

その中で、ユニクロ原宿店は、フローリングの床、オリジナル什器、演出照明が組み込まれた天井で構成されていた。これは、80年代のDCブランドショップの水準である。そして、単一商品の多色展開で天井まで商品を積み上げ、圧倒的なビジュアル効果を上げていた。

こうした思い切った店舗への投資と、MD展開、VMD演出は、コストダウンばかり考える量販企業にはみられないものだった。それをユニクロは実現し、原宿という都心の一等地に出店したのだ。

アパレル製品をセルフ販売

1984年、有楽町マリオンがオープンし、有楽町西武と有楽町阪急がテナントとして出店した。有楽町西武の一階には、約100坪の「ザ・マーケット」があった。「ザ・マーケット」は、複数のDCアパレルによる平場であり、百貨店自主MDの元祖でもあった。当時の私は株式会社スクープでザ・マーケットを担当しており、企画提案から準備、運営まで携わっていた。

最早、知っている人もいないだろうが、「ザ・マーケット」の当初のコンセプトは「シティスーパー」だった。押しつけのコーディネート提案ではなく、顧客に自由に選ばせる単品展開とし、スタイリッシュなセルフ販売を実現するというものだった。残念ながら、売場はアパレル別となり、セルフ販売も途中で中止になった。

有楽町西武の一階は、無印良品とザ・マーケットがメインだった。当時の無印良品は西友の管轄であり、西武百貨店の一階に出店することはなかった。百貨店の一階を化粧品と雑貨ではない、革新的でスタイリッシュなカジュアル売場にしようとしたのだ。

この売場のコンセプトがほぼ完全な形で具体化されたのが、ユニクロ原宿店だった。

量販店は元々セルフ販売だったが、その目的は販売コストの圧縮である。勿論、ユニクロもコストダウンを狙っていただろう。
しかし、それ以上に消費者を魅了したのは、気軽に買える価格の商品を、気軽に何枚も買い物カゴに放り込んで購入するという体験だった。

そして友人に「これ全部でいくらだったと思う?」と自慢する。そうした一連の行為がサプライズだったのだ。

コーディネートではなく単品を売る

70年代に誕生したデザイナーズブランドの革新は、トータルアイテムをコーディネート展開したことだった。

当時の百貨店の売場はブラウス売場、セーター売場等のアイテム別の平場が主体であり、アパレル企業も特定のアイテムを専業としていた。東京ブラウスはブラウス単品であり、東京スタイルはドレス、コート主体だった。

生産する側から考えれば、機屋も縫製工場もアイテム別なのだから、アイテム別のアパレル、アイテム別の売場が合理的なのだ。しかし、アイテム別に展開するデメリットは、トータルコーディネートができないことだ。

欧米のデザイナーズブランドは、オートクチュールの伝統を引いた、トータル展開が基本だった。それに習い、トータルアイテムによるトータルコーディネートをショップで展開することが革新だったのである。

その流れは、SPA、ファストファッションへと引き継がれ、現在ではトータルアイテムによるトータルコーディネートが当たり前になっている。

しかし、ユニクロはあえて単品展開にこだわっている。逆に言うと、未だにトータルコーディネートはできていない。ショーウィンドーのティスプレーを見ても、コーディネートはチグハグだし、カラー展開も全体のコーディネート計画ができていないことを示している。

しかし、それには必然的な理由があるのだ。

中国生産で固める

中国生産が本格化したのは、80年代半ばだった。当時は、国内生産、韓国生産、台湾生産、中国生産が混在していた。90年代になって、中国製品の品質が安定するようになり、次第に比率を高めていった。それでも、中国生産できるアイテム国産でしかできないアイテムがあったのだ。

ユニクロ原宿店を見た時に、全ての製品が中国生産であったことに衝撃を受けた。国内生産と中国生産が混在していると、国内生産の工賃を基本に小売価格を決定することになる。それが当時のアパレル企業の常識だったのだ。

しかし、ユニクロは全ての製品を中国製品で固めた。逆に言えば、中国で生産できないアイテムやデザインは排除していたのだ。この思い切った商品政策により、ユニクロは中国生産のコストを小売価格に反映させることができた。

98年当時は、テーラードやデニムは展開していなかった。それらのアイテムは、どの縫製工場でも縫えるものではなかったのだ。その後、ユニクロの影響を受けて、中国生産の比率が圧倒的に高まるのだが、ユニクロほど徹底したブランドはなかった。その集中と選択は、非常に戦略的であり、効果的だったと思う。

単品訴求のスタイリッシュなテレビCM

80年代のDCブランドは、ファッション雑誌との連携を強めることで、消費者への情報発信を行った。その後のアパレル業界もそれに倣っている。テレビは、視聴者のターゲットを絞れないので、ファッションには向いていないと思われていたのだ。

ユニクロは、ファッション雑誌というメディアとの相性が良くなかった。明確なターゲット設定をせず、ベーシックなアイテムをエイジレスで展開していたからだ。

ユニクロが採用したのは、一つのデザインに絞ったテレビCMだった。当時、テレビCMを多用していたのは量販店企業だった。量販店の発想は、高額な費用を掛けるのだから、一つでも多くの商品を見せたいというものだった。様々なアパレル製品を来た複数のモデルが歩いているようなCMだ。

ユニクロは、量販店とは正反対の手法を採用した。フリースなら、フリースの商品だけを取り上げ、スタイリッシュな映像を作り上げ、文字やセリフに頼らず、あくまで視覚的に訴求する。生産も単品であり、売場も単品訴求。そして、CMも単品訴求である。ユニクロほど徹底して単品MDを展開しているアパレル企業はない。

一つ一つのアイテム開発力に秀でており、オンリーワン、ナンバーワンの競争力を持っているのである。

本気のネット販売

ユニクロがインターネット通販を始めたのは2000年である。当時既にユニクロの店舗は400店舗を超えており、イギリスへの海外出店も行っていた。

その中で、インターネット販売に着手したことは評価していい。現在に至るまで、本格的なネット販売ができていないアパレル企業の方が圧倒的に多いのだ。逆に言えば、日本のアパレル企業がネット販売を直営で行っていないので、ZOZOTOWNのような業態が成立したとも言える。

ユニクロは、2002年に中国上海に一号店をオープンしたが、不調に終わった。しかし、2006年には、アジア最大の店舗を上海正大広場に出店し、成功を収めた。2009年には、中国アリババグループの「タオバオ」に出店し、これも海外ブランドで一位の売上を上げている。

中国のネット通販は、チャットと連動している。顧客は発注してから、チャットで価格交渉等を行うのが一般的だ。そのため、ユニクロは24時間体制でのチャット要員を確保し、対応しているとのことだ。

通常、店舗で成功した企業は、その成功体験に引きずられるものだ。日本のSPA企業の多くがネット通販に消極的なのも、店舗拡大による成功体験があるからこそである。

ユニクロは、目先の成功体験に溺れることなく、長期的な戦略を展開している。中国出店に見られるように、何度か失敗しても、やり直し、最期には成果に結びつけている

このことは、他のアパレル企業も見習ってほしいと思う。

image by: March Marcho / Shutterstock.com

 

j-fashion journal

著者/坂口昌章(シナジープランニング代表)
グローバルなファッションビジネスを目指す人のためのメルマガです。繊維ファッション業界が抱えている問題点に正面からズバッと切り込みます。
≪無料サンプルはこちら≫

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け