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ホンモノ以上の実写感。孤高の天才画家、伊藤若冲の数奇な人生

京都は古くから日本の芸術、文化の中心地であり、多くの歴史的な芸術家を輩出しています。その中でもとりわけ「天才」と評される、伊藤若冲という画家をあなたはご存知でしょうか? 今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、世俗を離れ、ただ絵のために生きた孤高の天才画家・伊藤若冲の生涯を紹介しています。実物よりも気迫を感じさせる絵画に、あなたも虜になること間違いなしです。

錦市場が生んだ天才画家「伊藤若冲」

現代のアートやデザインに多大なる影響を与えた江戸時代中期の超絶技巧の画家・伊藤若冲(じゃくちゅう)。生前の若冲は人気も知名度もありましたが明治以降忘れられがちな存在になりました。大正、昭和の時代に研究が進み、1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価されるようになりました。特に、アメリカ人収集家ジョー・プライスのコレクションにより飛躍的にその知名度と人気が高まりました。

2000年に京都国立博物館で開催された大回顧展でその人気は急上昇し現在もそのブームは続いています。今では商品のパッケージのデザインなどに採用されるなど、若い世代を中心に絶大な人気を誇っています

そんな若冲は今年で生誕300年。今週末4月22日)から上野の東京美術館で「生誕300年記念 若冲展」が開催されます。期間は4月22日(金)から5月24日(火)までの約1か月間です。詳しくは公式ホームページをご覧ください。

生誕300年記念 若冲展

若冲の生涯

1716年、八百屋や魚屋が軒を連ねる京の台所・錦市場の青物問屋の長男として生まれます。今でいう八百屋の家に生まれたことは後の彼の作品に少なからず影響を及ぼすことになります。

父が没した後家業を継ぐことになります。若冲は内向的な性格だったらしく享楽的な生活を送るようなことはなかったようです。彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも全く興味がなかったそうです。俗世への欲のみならず、家業である商売にもあまり関心が持てず、頭の中は常に絵筆を握りたいという思いが強かったようです。

若冲は家業を続けながら30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めました。時は江戸時代中期、若冲は当時画壇の主流だった狩野派の門を叩きます。しかし、狩野派を学んでも自分の画法を築くことは出来ないと考え独学で腕を磨くことを心に決めます。幸い京都には主に中国の名画を所蔵する寺が多いので、模写の為にあらゆる寺社に足を運びました。

絵にかける思いは募りいつしか若冲は店を他の者に任せて丹波の山奥にこもります。40歳を目前にして弟に家業を譲って隠居し、弟はそれを受け入れ兄を経済面で支え続けました。

絵を学ぶために鶏を飼う

画業に専念出来るようになってからは1,000枚とも言われる模写の日々が続きます。やがて、若冲は「絵から学ぶだけでは絵を越えることができない」と思うようになります。実物を描くことで真の姿を表現しようと思い立つのです。

生き物の内側に「神気」(神の気)が潜んでいると考えていた若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始めます。しかし、一時もじっとしていない画材を写生することはすぐに出来ず鶏の生態をひたすら観察し続ける日々が続きます。朝から晩まで鶏とにらめっこです。1年が経ち見尽くしたと思った時おのずと絵筆が動き出したそうです。その後鶏の写生は2年以上続きました。その結果鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見えるようになりあらゆる生き物を自在に描けるようになりました

この頃から、若冲は代表作となる「動植綵絵さいえ)」シリーズに着手しています。身の回りの動植物をモチーフに描き、完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となりました。そしてその大作はその後日本美術史における花鳥画の最高傑作となりました。

ちょうどその頃京都では12歳年下の写実主義で有名な天才画家・円山応挙が頭角を現します。応挙の人気は絶大で門弟1,000人という円山派が京の都の画壇を席巻します。一方、若冲は対象的に一匹狼の画家で朝廷や政権にコネもなく孤高の天才画家として知られていました。

1788年、72歳になった若冲を突然「天明の大火」が襲います。この大火事で彼の家も画室も焼失し大阪へ逃れました。私財をすべて失って生活は貧窮し70歳を過ぎて初めて生活の為に絵を描くほど貧乏になってしまいました。74歳からは京都に戻り、深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲しました。そして不幸は重なり、76歳の時にずっと援助してくれていた弟が他界してしまいます。

若冲は京の都で円山応挙と天才画家の名を二分するほど高名な存在でした。しかし晩年の若冲の日々は悲しみに満ちたものになってしまいます。ただ元来享楽的な志向がなかった彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適であったと伝えられています。

最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築いています。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て約10年がかりで完成したものです。境内の山がちな山林の敷地に現在もところ狭しとさまざまな表情をした羅漢さんを見物することが出来ます。

1800年、84歳の長寿で大往生するまで生涯独身を貫きひたすら絵を描くことにエネルギーを注ぎ続けた人生でした。

現在、石峯寺の境内には若冲の墓があります。また若冲のゆかりのある相国寺にも墓があり、藤原定家、足利義満などそうそうたる歴史上の人物と並んで眠っています。

相国寺との深いつながりと皇室との関係

江戸時代の画家・伊藤若冲は相国寺の僧・大典(だいてん)と親交があり、若冲作品が相国寺に伝わります。「若冲」の号も、大典が老子の文章から与えられたものだと言われています。

若冲が10年の歳月を費やし動植物を描いた「動植綵絵」30幅は綿密な描写、画絹や絵具にも注意を払った最高傑作です。鶏、魚介類、昆虫、草花が多種、濃密に色鮮やかに描かれています。「動植綵絵」「釈迦三尊図」3幅は、伊藤家と若冲自身の永代供養を願って相国寺に寄進されています。

以後、法要に際して「釈迦三尊図」「動植綵絵」は掛けられています。明治時代の神仏分離令後の廃仏毀釈により寺の寺領が没収され窮乏に陥ってしまいます。この時相国寺は「動植綵絵」と寄進状、売茶翁の一行書は明治天皇に献納されています。

なんとか寺の存続を守るためにと差出した貴重な寺宝の下賜金1万円により相国寺の境内は守られたといいます。その時の経緯から現在も若冲の絵の一部は皇居で大切に保管されています。

動植綵絵の魅力

約10年の歳月をかけて制作された、生命の「神気」を描いた30幅の花鳥画。濃密な空間、埋め尽くされた溢れる命、生命の息吹を感じる力強い作品です。画材の細部に注がれる熱い視線、高い描写力と鮮やかな極彩色で、鶏、昆虫、魚介類、草花が描かれています。忠実に描かれた写生でありながらデザイン性を持ち合わせているのも若冲の作品の特徴です。模写という型から飛び出し実物以上に写実感のある型破りな絵画手法は天才画家の余裕を感じさせるものがあります。どの絵も最高級の画材で描かれており、250年ぐらい経っているにも関わらず色あせていません。

若冲は全幅を相国寺に寄進しましたが、明治時代に明治天皇に献上されて以降皇居に所蔵され、現在も宮内庁が管理しています。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。
これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Wikimedia Commons

 

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