MAG2 NEWS MENU

なぜ日本人は米国人に比べて「自己主張」がココまで下手クソなのか?

いつも思ったことをズバズバいう米国人。それに対して、思慮深く自己主張が苦手な日本人。一般的にはこんなイメージを持たれがちですが、『メルマガ「ニューヨークの遊び方」』の著者りばてぃさんは、むしろ「考える」ことはアメリカ人の方が日本人よりも大好きなんだそうです。そして、日本人が自己主張を苦手とする理由も、この「考える」ことと関係があるようです。お盆休みの今だからこそ、この「考える」ということについて「考えて」みませんか?

米国では「考える」ことが習慣や文化になっている

日本は、お盆休み間近。猛暑も続き、いつもよりスロー・ペースで過ごされている方もたぶん多いだろう。

一般的に、なかなか長期休暇を取りにくい日本の職場環境だと、お盆やお正月は、1年に数回しかない特別なバケーション。

田舎に帰って、懐かしい風景や人々に触れ、ふと昔のことを思い出されたり、今の自分やこれからの自分について考えてみよう・・・という方も多いのでは?

ついつい慌しい日常生活や仕事に追われて、じっくり考える余裕がなかったりするけれど、人間にとって「考える」ことは大切だ。不思議なもので、まったく同じ状況でも、何をどのように「考える」かで、充実感や幸福感は大きく変わってしまうものだったりする。健康状態とか生活の質だって、考え方ひとつだ。

そんなわけで、今回の特集は「考える」をテーマに、日米文化差などを取り上げつつ、書いてみようと思う。

さて、日本人の感覚からすると、陽気でストレートにズバズバと自分の意見を口にしたり、主張する文化を持つアメリカ人は、あまり物事を深く考えていないように見えるかもしれない。

でも、いろいろなタイプのアメリカ人の方々と実際に接していくと、もちろん個人差はあるものの、「考える」ことを重視してる方は、日本人よりも結構多いような気がする。現在、経営学、政治学、物理学や医学、アートや音楽、そしてITやコンピューター・サイエンス他、あらゆるジャンルにおいて、世界を代表する研究機関や専門家がアメリカに存在する理由の1つも、実は、アメリカ人は「考える」ことが大好きだからなのではないだろうか?

しかし、これはアメリカ人の頭脳が優秀だからとか、知能指数が高いからとか、そういう理由じゃないと思う。そういうことではなくて、アメリカ文化では、どうしても日常的に「考える」ことが求められる場面が、単純に多いということなのだろう。

そう、「自由の国」アメリカには、世界中から多種多様の文化や価値観を持つ、異なる民族や人種が集まってくる。みんなバラバラの考え方や価値観を持つ。そして、多くの日常的なシーンで、「あなたらしい」個性のある独自の発言・見解が求められる。こういう環境では日常的に「考える」ことが自然に増えてくる。

学校の授業や、職場のミーティングに限らず、友達の家のパーティでちょっとした会話、例えば自己紹介する際などでも、何をどう話すか事前によーく考えておかないと、大恥をかくことになりかねない。

どういう意味か?例えば、自己紹介の場合を考えてみよう。

日本の場合、自己紹介するときは、自分の年齢、出身地や今住んでいるところ、あとは家族構成とか、職業などについて、ごくごく軽く話したら、その人がどういう人物なのか、みんなだいたい察しがついてしまう。

例えば、35歳で横浜出身、世田谷在住、小学生2年生の娘がいて、大手町の会社に勤務…のような感じの自己紹介を聞いたら、その人のイメージが思い浮かぶだろう。それで、だいたいオッケー。

日本の場合、この程度の情報でも、勝手に想像したイメージと本人の人物像が極端に違ってくることはまずない。特に都市部では、そういう傾向があるだろう。

出身大学や勤務先の企業名が有名な場合、その名前も一緒に出したら、自分がどんな人物か、詳しい話をする必要性も、チャンスもほとんどなくなってしまう。

しかし、アメリカではそうはいかない。

中でも「多様性の街」と呼ばれるニューヨークでは、その程度の自己紹介じゃ、その人がどういう人物かさっぱり分かってもらえない。ちょっと例を挙げてみよう。

例えば、27歳でスウェーデンのヨーテボリ出身、アッパーイースト在住、独身で、ミッドタウンの会社に勤務…とか、言われてもいまいちピンとこない。

35歳でフランスのマルセイユ出身、ブルックリン在住、小学生2年生の娘がいて、マディソン街の会社に勤務…でも、どんな人なのか分かるわけがない。

42歳でメキシコのグアダラハラ出身、クイーンズ在住、小学生の子どもが3人いて、ダウンタウンの会社に勤務…でも同じ。

いかがだろう?この程度の情報じゃ、その人がどんな人物なのか、さっぱりイメージがつかめない。もっといろいろ話を聞いてみたくなる。

ニューヨークで日本人が日本人以外の方々に、自己紹介する様子をイメージしてみると、もっと分かりやすい。みなさんが、ニューヨークで仕事のミーティングや、お友達のパーティなどで自己紹介する場面を想像してみて欲しい。どういう自己紹介するだろうか?

年齢???

まず、そもそもアメリカでは、いきなり年齢を聞かれることはないし、自分から言う人もほとんどいない。なぜなら、年齢によって決まってくる状況がほとんどないからだ。

優秀な学生が飛び級するのは当たり前だし、社会人経験を積んでから大学に入って学生をする方も普通にいる。日本のような終身雇用制は一般的ではなく、したがって、年功序列という発想もない。こういう状況では、年齢の情報は意味がない。だから、年齢を言っても、聞いても、あまりピンとこない。

じゃぁ、勤務先は???

勤務先についても日本とは考え方がだいぶ違う。転職も多いし、優秀な人ほど転職する。さらにもっと優秀な方々は、自ら会社を起業するのが半ば常識になっている。だから、勤務先が有名な大企業だろうと無名の中小ベンチャー企業であろうと、それだけじゃ、実際のところ何も判断できない。それにそもそも勤務先よりも、職種(何の分野の専門家か?)の方が重要視される。それでも、あくまで参考情報の1つだ。

出身地の情報についても同様だ。

昔、訪れたことがあるとか、住んでたのなら話は別だけど、聞いたことない外国の都市名を言ったところでピンとくる人は少ない。上述の例のスウェーデンのヨーテボリとか、フランスのマルセイユとか、メキシコのグアダラハラ等と言われてもさっぱりイメージわかないだろう。日本の都市名を伝えた場合も同じことだ。

いや、仮に、マンハッタン出身と言われても、この街にはお金持ちから貧しい人まで多種多様な人々が住んでいるから、その人がどういう人なのかを理解するためには、もっといろいろ聞きたくなってくるだけだ。

じゃ、何について語ることになるかというと、例えば、あなたが日本出身と言ったら、あなた自身のことをもっとよく知りたいという意味もこめて、今ならほぼ100%間違いなく、日本の文化や、ポップ・カルチャー、あるいはお寿司やラーメンなどの食文化などについても質問されることだろう。

どこが一番美味しいお寿司屋さんだと思う?」といったことから、「ニンジャやサムライは日本にまだいるのか?」みたいな質問まで、いろんな質問を真面目に聞かれることになる。上述のスウェーデンやフランスやメキシコ出身という方々に、あなたもきっと同様の質問をするはずだ。

こうした質問は、その答えが知りたいだけじゃなくて(もちろんそういうケースもあるけど)、その質問にあなたがどのように答えるか?で、あなたがどのような人物かを知ろうという意図がある。

もちろん、全部の質問に答えられるわけないけど、何を聞いても「分かりません」「知りません」ばっかりの返事だったら、「あれ?この人、日本人なのに日本のこと何も知らないのね、がっかり…」とか思われてしまうかもしれない。自分の母国のことなのに答えられない、ということは、日本人が思っている以上に恥ずかしいことだ。

フランス人にフランス文化の質問をして、ことごとく「分かりません」と答えられたら、どう思う?答えが知りたいんじゃなくて、そういう質問にあなたがどのように答えるかを見たい、という意図がある場合は、なおさらだ。

「分かりません」ばっかりだったら印象が良くなる要素がない。シチュエーションによっては、信頼関係に影響が出てくる可能性もある。そういうことだ。信頼されなくなるなんてヤバイ。だから、最近のニュースを見ていて、「あー、これ聞かれそう」とか思う話題があったら、事前に自分で調べたり、詳しい人から話を聞いて、「考える」ことになる。

そして、ある程度勉強になったり、笑えたりするスモール・トーク用のネタを準備する。簡単に言うと「すべらない話」みたいな内容だ。しかも、話のジャンルはめちゃめちゃ幅広い。きゃりーぱみゅぱみゅから、歌舞伎や浮世絵などについてまで、いきなり聞かれることがある。

あるいは、女の子は野球のルールすらよく分かっていなかったりするけども、例えば、ヤンキース球場で松井選手が引退セレモニーを開催したり、イチロー選手が活躍してたりすれば、日本の野球について、誰かに聞かれたときに答えられるように、ある程度、話ができるように準備しておかないと安心して引退セレモニーを見に行けないだろう。

〔ご参考〕
愛知県の「忍者募集」が世界中でニュースに!!! でも、なぜ忍者は注目されるの?

ヤンキース球場での松井秀喜選手の引退セレモニー

3000本まで残り3本、敵チーム・ファンからも「彼はレジェンドだよっ!!!」と尊敬されるイチロー選手

Ichiro Suzuki records 3,000th MLB hit with towering triple

こうした事前のネタ作り…というか、自分がどういう人物かをちゃんと表現し、しっかり伝えるために準備をするのは、何も日本人だけに限ったことではない。みんな普通にやっている。しかも、たぶんほとんど無意識のうちに。まったく特別なことじゃない。

もともと持ってるお互いの文化が違うということが最初から明白なので、「こういう思いやアイデアをみんなに伝えるにはどう表現すれば良いか?」について、無意識のうちに、日頃からいろいろ「考える」というワケだ。そりゃもう、日本では想像できない次元で。それが習慣や文化になっていると感じるほどだったりする。

日本人が自己主張を苦手とする理由

そういえば、アメリカでは、小学校の頃からクラスのみんなの前で、週末あったこと等について、簡単なスピーチをさせる。映画やドラマでそんなシーンを見たことあるよ、という方も多いだろう。さらに高校や大学では、本格的なスピーチやディベートを学ぶことになり、授業においても自分ならではの意見を求められる。

近年、日本でも、マイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室』というNHKのテレビ番組が人気になったので、こちらの大学の授業がどんな雰囲気かだいたいご想像がつくだろう。

簡単に言うと、教授が「何が正解なのか分かりにくい」質問を学生に聞いて、みんな自分がどう思うかを自由に述べる形式。例えば、ブレーキの壊れたトロッコの運転手になったり、殺人事件を裁く陪審員の立場に立たされる。「何が正解なのか分かりにくい」というより、明確な正解がない質問と言ってもいいかもしれない。

実社会には、学校の教科書や授業のように必ずしも1つの正解があることの方が少ない。1つの正解を求めるよりも、みんながそれぞれ自分の意見を述べて、より良い道を一緒に考える方が大切だったりする。だから、こういう授業をやっている。サンデル教授のご専門は、政治哲学だけど、別に他の専門分野、例えばマーケティングの授業でも、だいたい基本的にこんな感じのノリだ。明確な正解がないことは多い。

さらにアメリカでは、自分の意見をちゃんと表現して伝えるか、ということは、学生だけでなく、誰にとっても大切なことと考えられており、社会人向けのパブリック・スピーチやコミュニケーションの学校やセミナーなども多い。

70年以上も前に書かれた古典的名著、『人を動かす』の著者デール・カーネギー(Dale Carnegie)さんも、あの本の出版当時、ニューヨークで20年以上も社会人向けのパブリック・スピーチの学校で先生をされていた方だ。

1937年(昭和12年)に出版されているので、日本の歴史で言うと、盧溝橋事件が起こって日中戦争に突入した年のことである。または、第二次世界大戦の開戦2年前。いわゆる戦前。そんな頃からニューヨークには、社会人向けのパブリック・スピーチの学校があった。

当時の日本に、そんな学校あっただろうか?いや、今だって、ほとんどない。

日本の場合、今でも、自分の意見を表現して伝えるスピーチの授業に熱心に取り組んでいる学校は、少ない。むしろ日本の学校教育では、いろんな場面で、個人差がつかないように、みんなが同じであるように…という考え方が広まっているような気がする。

「自分らしさ」に目を向けるのではなく、

◆運動会の徒競走でみんな手をつないでゴール

◆学芸会の演劇でみんなが主役

◆部活動のサッカーでみんな背番号10番

…など等。

それじゃ「自分らしさ」を知る機会が奪われて、社会に出てから子どもたちが大変だとか、かわいそうという声もあって、一部の私立とかで中高生にスピーチの授業を行う学校も出てきたようだけど、それ以外の一般的な日本の学校では、相変わらずの状況だ。

なんでそうなるか?っていう話題が出ると、「日本人は、自己表現や自己主張が苦手」という理由が昔から挙げられたりするけれど、でも、それって本当にそうだろうか?そういうことではなくて、単純に、日本人はアメリカ人のように、日常生活の中で、自己表現や自己主張をする必要性や機会がないから、慣れてないだけな気がする。

なんと言っても、日本の人口の98%以上は日本人だ。ほぼ100%の人々が、日本語を理解し、日本の文化や価値観を共有している。この環境では、いちいち細かい説明をしなくても、「あ、うん」の呼吸で通じ合えることは多い。

また、細かい質問をしないで賛同する同調ムードは、「空気を読む」と「世間体を考える」などの表現のとおり、大多数の日本人からより良いものと考えられている。だから、自己表現や自己主張をする必要性や機会は日常生活の中に滅多にない。

一方、上述のとおりアメリカは、多種多様の文化や価値観を持つ、異なる民族や人種が集まってできている。

自分とは違う文化や価値観を持つ大切な友人にも誤解がないように何か伝えたいと思ったら、どうやって表現して伝えたらいいのか、みんな自然に事前に「考える」ようになる。「考える」から、表現できるだけであって、格別アメリカ人が優秀ってワケじゃない。

だから、日本で学校教育の内容を変えて、自己表現や自己主張の能力を高めようとしても難しい。なかなかうまく行かない。なぜなら、根底にある日本の環境や、日常生活は変わらないからだ。必要性も機会もないんだから、そりゃ、日本人が自己主張を苦手とするのも仕方がない。それも含めて日本文化ということだ。

そして、日本人なら、必要性や機会があれば、いくらでも上達するだろうから、「自己主張が苦手」なことに対して、必要以上に悲観的にならなくて良いと思う。

ただし、ここで1つ言えることがある。

日本では、自分の意見やアイデアについて、みんなあまり日常的に意識していないのであれば、あえて「考える」ということで、何かを変えるチカラになる可能性がある、ということだ。つまり、人に先んじるチャンス。しかも、かなりお手ごろ。ニューヨークだったら、大人も子どもも、誰だって普通にやってることだ。

なんだかんだ言っても、今はグローバル時代。あえて「考える」ことで、外国の方々に自分の意見や思っていることを、もっとちゃんと伝えられるようになるかもしれない。あるいは、最近、日本で問題になっているメディア報道の内容が、どの程度、正しいかもっと見極められるようになったりするかもしれない。

あえて「考える」ということで、普通の日常生活の中でも、自分を成長させる発見や気づきが増えてくるかもしれない。

「いや、もう毎日忙しくて考える余裕がないよ」という方も、きっとたくさんいらっしゃるだろうけど、でも、今、日本はちょうど1年に数回しかない長期バケーション明け
世の中全体も、いつもよりスロー・ペースな雰囲気になっているのであれば、こういう時こそいろいろと「考える」チャンスではないだろうか?

「考える」から感動できる

デール・カーネギーさんの書いた古典的な名著、『人を動かす』(How to Win Friends and Influence People)では、優秀なリーダーはホルモン分泌に一定の特徴があり、みんな「幸せな戦士」(Happy Warrior)の性質を持つ、という発見を報じたハーバード・ビジネス・レビュー最新号の記事がある。

現代科学の進歩によって、人間の脳内物質やホルモン分泌の特徴はすでに明らかにされており、優れたリーダーは、脳内物質やホルモン分泌の段階から、ストレスや不安に強い傾向があるという。

そして、何より重要なのは、その脳内物質やホルモン分泌は、ある程度、人間が意識的にコントロールできるってことだ。

つまり、無理しなくてもストレスや不安に強くなれるよ、というワケ。

そして、その脳内物質やホルモン分泌をコントロールする代表的な3つの方法は、

  1. まず、一番良いのは『運動』
  2. 『日光』を浴びる
  3. 『感動』する

・・・ということ。

『運動』と『日光』を浴びるのは、まぁ、ぶっちゃけ誰にでもできることなので別に良いとして、3つめの『感動』するについて、改めて考えてみて欲しい。

『感動』すると脳が刺激される。『感動』した脳内では、様々なホルモンや脳内物質の分泌量が増えたり、抑制されたりして、人間は安定した精神状態になることが科学的に判明している。

感動的なドラマや映画を見て、涙を流すほど『感動』した後に、なんとなく気持ちがすっきりしたという経験がおありの方も多いだろう。それは気のせいじゃなくて、ホルモンや脳内物質のせいなのだ。

でも、じゃぁ、いったいどうしたら、私たちの日常生活の中で『感動』する機会を増やすことができるのだろうか?そもそも『感動』するには、何が重要か?

一番の特効薬が、たぶん、「考える」ということじゃないかなと思うのだ。そう、「考える」。

同じものや、同じ現象を見ても、事前にその背景や歴史的な意義などについて知っていたり、自分なりの意見を持っている場合と、まったく何も考えてない場合では、受け止め方は、大きく変わってくる。事前に何も知らない場合はなおさら、そこでふと立ち止まって「考える」か、ただ通り過ぎるかで、『感動』する頻度は激変するだろう。

例えば、観光旅行やビジネス出張でニューヨークを訪れた際に、街角をお散歩していて、ふと「歩道が幅広い」ことに気づく。日本と比べると、ニューヨークの歩道はどこもたいてい幅広く、歩きやすい。ここでふと立ち止まって、なんでかな?とか、ってことはどういうこと?と「考える」のと、何も考えずにただ通り過ぎるのでは、大違いだ。

「歩道が幅広い」ので、ベビーカーを押した若いお母さんも、気軽に赤ちゃんとお散歩できる。車椅子の方々だってそうだ。いわゆる社会的弱者の方々の生活の質がずいぶん違ってくる。そうした人々の暮らしぶりにまで思いをめぐらして、考えてみると、それまで見えなかったものも見えてくるだろう。そこには『感動』することも多い。なお、こういうのは、観光地だけしか見てないといまいちピンとこないかもしれない。だから、住宅街を訪れてみるとか、いろいろと工夫は必要だろう。

例えば、こういう例もある。

ニューヨークの住宅街の地下鉄の駅には、エスカレーターやエレベーターが充実していない。あんなに沢山の方々がベビーカーや車椅子で外出してるのに、これでどうやって地下鉄に乗るのか?と言うと、みんなで助け合うのだ。

つまり、例えば、ベビーカーを押して、住宅街の地下鉄の駅の階段前までやってくると、まず100%の確率で、通りすがりの人々が「お助けしましょうか?」と声をかけてくれる。大きな荷物を持った女性や高齢者にも「お助けしましょうか?」と、誰かが必ずやってくる。いろんな文化や慣習を持つ人々の集まった街なので、みんながみんなそうじゃないけれど、「レディ・ファースト」という考え方は、文化の違いを超えて、結構、定着していて、エレベーターに乗り降りする際なども、女性に「お先にどうぞ」という男性は多い。

こういう社会環境なので、地下鉄の階段前とかでも、普通に、自然に助け合いの風景を目にする、というワケだ。「レディ・ファースト」や助け合い精神といったものについても、「考える」ことで初めて気づけるだろう。そして、そこから何かを感じ取ることもできる。そう、「考える」から感動できるのだ。

ニューヨークの街角には、日本人の感覚では思いもよらない、多種多様の文化背景を持つもの、パフォーマーやアーティスト、お店や飲食店も多いので、ふと立ち止まって「考える」ことで、改めて気づいたり、発見したり、『感動』することも多いような気がする。

自分の外で起こっていることだけでなく、自分の内面に改めて目を向け、考えて、気づいたり、発見したり、自分の持つ可能性に『感動』することだってあるだろう。

それがニューヨークという街の最大の魅力なのかもしれない。

日本の場合は、ニューヨークほど異文化を感じる機会はなかなかないかもしれないが、それでも、その地域ならではの独特な伝統や文化を感じさせる場所はある。この機会にそういう場所を訪れて、立ち止まっていろいろ考えてみると、良いかもしれない。

そうそう、『感動』することで、人間の脳は若返るとも言われている。

もし、お盆休みが長すぎて退屈・・・と感じたらそれは「もっと感動が欲しいよ」という、脳の自己防衛本能に基づくメッセージかもしれないので、この機会に日頃考えてこなかったいろいろなことを考えてみたり、どこかに出かけて、脳に刺激を与えてみるというのはいかがだろう?

日本のお盆シーズンというのは、1年の中でもかなり特別な時期。世間は夏休みムードたっぷりだし、暑い日も続くのでダラダラしてしまう方もたくさんいらっしゃるとは思いますが、逆に言うと、この時期ほど、じっくりいろいろと考える時間が取りやすい時期はないでしょう。そういう意味では、大チャンス。

子どもに戻ったつもりになって、日頃、考えたことのないことに思いをめぐらし、感動体験を増やしてみると、これからの人生が大きく変わるかもしれません。

image by:  Shutterstock.com

 

メルマガ「ニューヨークの遊び方」』より一部抜粋

著者/りばてぃ
ニューヨークの大学卒業後、現地で就職、独立。マーケティング会社ファウンダー。ニューヨーク在住。読んでハッピーになれるポジティブな情報や、その他ブログで書けないとっておきの情報満載のメルマガは読み応え抜群。

≪無料サンプルはこちら≫

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け