MAG2 NEWS MENU

偏見を賞賛に変えた奇跡。日系志願兵「第442連隊」の栄光と影

第二次世界大戦の戦火の下、アメリカのために命をかけて戦っていた日系人がいたことをご存知でしょうか。ハワイに住む日系青年たちが、自ら戦地に赴くことを願い出たのです。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、アメリカ人として生き、アメリカのために戦い、アメリカのために死にたいと願った日系米兵の苦難と栄光の道のりが紹介されています。

日系米兵の二つの戦い

1944年10月、ドイツとの国境近くにあるフランスの小さな町ブリエアに住むレイモン・コラン医師は、米軍の飛行機の音を聞きながら、「明日こそは」とドイツ軍からの解放の日をもう6週間も待っていた。

そんなある日、コランが2階にいる時、「ボッシュ?」と階下から叫ぶ声が聞こえた。それはフランス人がドイツ兵を陰で憎しみを込めて呼ぶ言葉だった。待ち望んでいた米兵が、敵兵を捜す声に違いない。コランは喜びに浮き立って、一気に階段を駆け下りた。だが、そこで見た光景にコランは驚きのあまり凍りついた。なんと二人の「日本軍の兵隊が銃を構えているではないか。

日本はドイツの同盟国だ。待ちに待った米軍どころか、ブリエアは地球の反対側からやってきた日本兵の手に陥ちたのか。新たなる恐怖の占領か。ああ神よ!

すると、「日本兵」の一人がニッと白い歯を見せ、自分の胸を親指で指して「ハワイアン」と言った。それでもコランが何だか分からずにいると、笑顔で握手を求め、コランの肩を抱いた。

日本兵たちはドイツ軍を追ってすぐに去っていった。翌日からは白い顔のアメリカ兵がやってきた。

「第100大隊」

この「日本兵とは第100大隊に所属するハワイ出身の日系米兵だった。真珠湾攻撃の約1年前から選抜徴兵制が始まったが、ハワイでは人口の4割が日系人である。徴集された兵も約半数が日系青年だった。

彼らが入営する時は、義理のある米国に恩を返すときだと、親たちは盛大に祝った。徴集兵が出発する駅では、「祝 入営 ○○君」と日本語で書かれたのぼりが何本も風にひらめいて、その先に星条旗がなかったら、日本国内の光景と見間違えたろう。

しかし日本軍による真珠湾攻撃の後では、日系米兵だけが本土に送られた。もし日本軍がハワイに上陸し、米軍の軍服を着込んで侵入されたら、日系兵と見分けがつかない、という心配からだった。ハワイから送られた日系米兵1,432名は第100大隊」とされた。通常は師団―連隊―大隊という構成になるはずが、第100大隊には親となる連隊がなかった。引き取り手となる連隊がない「第100大隊」に、日系兵たちは不安と不満を隠しきれなかった。

日系兵たちは英語と日本語とハワイ語の入り混じったひどい英語を話したので無教養に見えたが、実は大半が高卒で、大学入学者も12%いた。彼らが家族に書き送る英語の手紙は文法に適ったもので、検閲係の白人将校を驚かせた。大隊の知能指数は平均103で110以上なら士官学校行きである。白人なら将校になるはずの兵が多数いたのである。しかし第100大隊の将校はほとんど白人で固められていた。

第100大隊は、北部のウィスコンシン州、続いて南部のミシシッピー州で訓練についた。銃機関銃を据える時間は陸軍の平均が16秒だが、彼らは5秒という驚異的な数字を出した。平均身長160センチと子どものような体格なのに、フル装備のまま1時間5.3キロのペースで8時間ぶっ続けに歩いた。普通なら1時間に4キロがせいぜいである。

過酷な演習の合間に、彼らは日系人として米国のために戦う意義を語り合った。

俺たちは二つの戦いを戦っている。アメリカに代表される民主主義のためと、そのアメリカに於いての俺たちへの偏見差別とだ」

人種偏見をはね返して、対等なアメリカ市民としての立場を得るためには、戦場で勇敢に戦い、アメリカのために血を流すしかない、というのが、彼らの思いであった。

日系人たちの誇り

第100大隊が前線に出る望みもないまま、訓練に明け暮れていた1942年10月頃、陸軍の上層部では日系の志願兵による部隊編成を認めるかどうかの議論が進められていた。日系市民協会からは、志願兵部隊編成の請願が出されていた。

この頃、本土の日系人12万人が収容所に入れられていた。特にアメリカ生まれの二世たちは、米国籍を持っていながら日本人を親に持つという理由だけで強制収容されていたのだ。多くの日系青年たちは、前線に立つことで祖国への忠誠を証明したいと思っていた。

陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、「人種のいかんを理由にこれ以上アメリカ市民権を圧することは無謀というものである。強制収容でその限界までやったのではないか。もう沢山だ」とのメモを残している。

また日本軍が、この戦争を人種的偏見から出た人種戦争であるとのプロパガンダを流しているのに対抗して、日系人が米軍として戦う事は有効なカウンター・プロパガンダとなる、との考えもあった。

こうした考えから、1943年2月1日、ルーズベルト大統領が日系志願兵による第442歩兵連隊の編成を発表した。当初、ハワイ諸島での募集人員は1,500人だったが、1万人を越える日系青年が応募したため、すぐに募集枠を2,600人に拡大した。「一旦嫁したら夫の家こそわが家」という日本人の伝統的精神からも、アメリカのために戦うことにためらいはなかった

3月28日、ハワイ全島から集まった2,686名の志願兵のための壮行会がホノルルのイオラニ宮殿前で盛大に行われた。当日の地元紙はこう報じた。

イオラニ宮殿の周りを埋めた1万5,000~7,000ともいわれるかつて見たこともない人の数に驚いているだけではない。…最も重要なのは見送りの家族や友に見られる明かな誇り—-若者たちが国と連合国のために戦う愛国的役目を託されたことへの誇りである。

「ジョー高田君戦死す」

1943年9月22日、第100大隊はイタリア南部のサレルノに上陸した。1年と10ヶ月以上も待たされてのようやくの実戦配備であった。彼らはサレルノに上陸した19万の連合軍将兵のごく一部であったが、従軍記者たちの注目を集め、ニューヨーク・タイムズ紙は「日系米兵―イタリア戦でナチと戦闘」と報道した。

9月29日、雨の中を北上しつつあった第100大隊は最初の敵に遭遇した。突如、敵の機関銃掃射を受けたのである。さらに砲弾も降り注いだ。

自分の身の危険を全く顧みることなく、タカタ軍曹は小隊の先頭に立ち、敵の側面へと導いていった。彼は機関銃手の位置を確かめんと故意に身をさらし、敵の砲撃で致命傷を負った。傷ついた後、数分しか命がなかったにもかかわらず、タカタ軍曹は副小隊長に敵の位置を知らせんとした。

日系米兵で最初に戦死し殊勲十字章を得たジョー・タカタの感状の一節である。

「ジョー高田君戦死す 元朝日野球団のスター」と、ハワイの日本語新聞は見出しを掲げた。高田は24歳、地元のアマチュア野球のスター選手として、日系社会では有名であった。妻のフローレンスとの新婚生活が2ヶ月に満たないうちに、タカタは出征した。

ジョーは国のために死にました」と若き未亡人は記者に語った。父親はこの未亡人を連れて役所を訪れ、毅然とした誇りの表情をたたえて、白人の役人に香典を赤十字にと寄付した。以後も日系兵の犠牲が出るたびに遺族がこの光景を繰り返すようになった。

ファナティック(狂信的)なオリエンタル・ソルジャー

ローマへの進軍途上で最も激烈な戦闘が行われたのが、カッシーノであった。ドイツ軍はここで連合軍の進撃を止めようと、強固な防御線を築いていた。最初に挑戦した2個師団はほとんど全滅した。第100大隊もほとんど同じ地点からの攻撃を命ぜられた。

ラピド河の上流のダムが爆破され、一面泥に埋まった150メートルもの川原を地雷を避けながら前進する。身を隠すものの何もない処に猛烈な砲火が降り注ぐ。多数の死傷者を出しながら、なんとか渡河に成功したが、横に並んだ他の部隊がことごとく渡河に失敗して、引き上げざるを得なかった。

カッシーノは結局、2度の空爆と4回の総攻撃により、4ヶ月後に攻略できた。第100大隊のA中隊は170余名だったが、この戦いに生き残ったのはたった23名であった。「僕はハヤシ家を代表してお国のために戦えることを心から名誉に思っています」と、両親への最後の手紙に書いたドナルド・ハヤシ伍長(24歳)ここで戦死した一人である。

わが国とファナティック(狂信的)に戦っている敵国からの移民の子孫、といってもまだ2代目だが、これら筋骨たくましいオリエンタル・ソルジャーは、同じようなファナティックさで今やわが国のために戦っている。

後に第100大隊と行動をともにしたUPの記者のこの記事は全米各地の新聞に掲載された。しかし、勇猛果敢な戦いぶりをみせる日系兵たちは、同時にこんな思いを家族への手紙で吐露していた。

ある町を占領したとか、ある高地を取ったと新聞で読むごとに、覚えておいて下さい。そのたびに幾人もの青年の命が消えたということを。忘れないでください、そのための戦いが身の毛のよだつ悪夢だということを。それは共に笑い眠り冷や汗を流した友を失うことなのです。友というより、血を分けた兄弟以上とさえいえる戦友が目の前で死んでいく。想像を絶する傷を受け、最後の息を吐くまで呻き祈ろうとする。数分前までは一緒に笑っていた友がです。(M・ツチヤ)

スパーブ(並はずれて優秀)という一言

日系の志願兵からなる第442連隊は約一年の訓練を終えて、6月10日、第100大隊とローマ北方で合流し、その配下の一大隊とした。本来なら第一大隊と改称する処だが、上層部の配慮で、戦功に輝く第100大隊の名前はそのままとされた。

連隊は海岸沿いに北上を続けたが、ベルベデーレ町で敵の猛烈な砲火に釘付けになった。この時、第100大隊は東に大きく迂回して町の北の高地に出て、敵の背後から奇襲攻撃をかけ、わずか3時間で敵を蹴散らした。敵の死者80余名、捕虜65名に対し、第100大隊はわずか4名の戦死と7名の負傷者であった。あわてた敵はジープ21両などを置き去りにして逃げていった。第100大隊は部隊として最高の栄誉である大統領殊勲感状を3度も得ているが、その最初がこの戦いであった。

北イタリアの重要戦略拠点であるリボルノ城の入城に際して、第442連隊を統轄する第5軍司令官のマーク・クラーク中将は、自らのジープのすぐ前に第100大隊を進ませた。それまでの戦功に対する労りの配慮である。また海軍長官ジェームス・フォレスタルや英国王ジョージ6世(現女王の父上)が戦場視察に訪れた時は、クラーク司令官は第100大隊の日系兵を閲兵式に出させた。戦闘の真っ最中だと連隊長は抗議したが、司令官が第100大隊でなければならないと頑として言い張ったため、サカエ・タカハシ大尉が兵の一部だけを伴って参加した。

参謀総長だったマーシャル将軍はその伝記で日系兵の働きについて、こう述べている。

スパーブ(並はずれて優秀)という一言が彼らを言い表して余りあろう。多数の死傷にめげず、まれな勇気と最高の闘志を見せた。ヨーロッパ戦線の彼らについて言葉を尽くすことは不可能というものだ。皆、彼らを欲しがった。

当初、実際に戦線に投入するかどうか軍司令部が迷った日系部隊はいまやすべての司令官が欲しがる存在になっていた。

この偉大な共和国がよって立つもののために

大勢が決したイタリア戦線から、日系部隊をフランス戦線に回せ、との要請があった時には、クラーク司令官はずいぶん渋ったという。第442連隊は9月30日、マルセーユに上陸し北上してドイツ国境近くのブリエアを解放したのが10月18日、本編冒頭の光景である。この後、敵に囲まれて窮地に陥った別の大隊を、連隊の三分の二が死傷するという大損害を受けながら救出し、大統領殊勲感状を与えられた。ヨーロッパ戦線は翌1944年5月7日に終わったが、第442連隊は数々の個人勲章に加え、部隊として7つの大統領殊勲感状を受け、「アメリカ戦史を通して最も多数の勲章を授かった部隊」となった。

1946年7月15日、時の大統領ハリー・トルーマンはホワイト・ハウスの芝生で第442連隊を整列させ、居並ぶ陸軍長官や軍高官の前で7度目の大統領殊勲感状を自ら授与した。ニューヨーク・タイムズは「トルーマン、2世ヒーローに叙勲」との見出しで、それまでに帰還した数々の部隊で、大統領からじきじきの名誉を受けた唯一の部隊であると報じた。トルーマンはこの時、こう述べた。

君たちは世界の自由諸国のために戦った。…君たちは今からそれぞれの家族のもとへと帰って行く。君たちは敵と戦ったばかりでなく、偏見と戦い、そして勝った。その戦いを続け、勝ち進んでくれたまえ。いかなる時代にも人民の福祉のため、と憲法でうたっているこの偉大な共和国がよって立つもののために。

大統領の言葉通り、日系人たちは偏見との戦いを続けた。終戦から7年目の1952年、日本移民一世の市民権取得を阻んできた移民帰化法が改定された。中心になったのは第442連隊での戦歴を誇る二世指導者たちであった。老いた父母にアメリカ国民としての権利を勝ち取ったのは、二世の息子たちが流した血であった。

ダニエル・イノウエは第442連隊で片腕を失ったヒーローとして、日系で最初の上院議員となり、かつての日系人の強制収容が繰り返されないよう緊急拘束撤廃法案を提出した。小隊長として負傷したスパーク・マツナガ中尉も、ハワイ州からのもう一人の上院議員となった。

人種差別は「この偉大な共和国がよって立つもの」すなわち、アメリカの大義たる自由と人権に悖る恥部であったが、それをはね返したものこそ、日系兵たちの生命と誇りを賭した戦いぶりであった。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

伊勢雅臣この著者の記事一覧

購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

無料メルマガ好評配信中

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 Japan on the Globe-国際派日本人養成講座 』

【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け