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なぜ、神道小学校の理念は間違いなのか。誤解された明治時代の教育

学校法人森友学園が開校予定の「日本初の神道小学校」と安倍総理との関係を巡るニュースが連日報道されています。明治時代に回帰するかのような同小学校の教育方針や理念も大きな話題となっていますが、「明治の教育が日本の価値を上げたわけではない」とするのは、メルマガ『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さん。津田さんは、世界に高く評価されている日本の精神的高潔さを維持するには「戻るべきは明治ではなく江戸時代」とし、その理由をわかりやすく、そして納得の筆致で記しています。

日本の価値を上げた原因を探る

森友学園の教育に感動して、安倍首相は奥様を名誉校長にしたが、明治の教育が日本の価値を上げたわけではない。それでは何が日本人の性格を決定したのであろうか? それを探る。

日本人の高潔さが世界的に評価されている

中国人観光客が日本を訪れ日本人の高潔さ、時間の正確さ、街の綺麗さ、人の礼儀正しさなどに感動している。欧米人も同様のことを言っていたが、今までは論語を教育されている中国、韓国も同様であろうと勝手に想像していたし、論語は中国の孔子が書いたので、中国の方が上と考える人も多かった

しかし、中国人観光客が日本に来て、日本の方が論語を体現していると言っている。この原因は何か、日本は江戸時代に論語を寺子屋で教えていたが、中国は論語を大夫の教えとして、庶民には教育しなかった。それに対して、日本では寺子屋で教育された率は、江戸市民の80%以上と論語が社会に浸透したことで、庶民の教えとなったのである。

それを戦後教育で禁止したことで、徐々に倫理観がない人が増えたが、それでもまだその考え方が社会に浸透しているので、今は維持されているのだ。

もう1つ、中国から入れたのが道教である。自然が豊かで、その自然をそのままに維持しているのは、道教を卑弥呼が取り入れてそれを日本古来の自然崇拝と統合して神道にしたことで、日本の縄文人からの自然観も維持できたようである。昔の自然信仰に宗教的な色を獲たことで、今に残ったようだ。

時代が下がって、南宋が潰れた時に貴族が亡命してきたが、この時入れたのが「内倹の心」である。きらびやかではなく、内心を落ち着かせ、ゆったりした心を体現することであるが、鎌倉五山、京都五山文化として坐禅と庭園、書院作りの文化を取り入れ、わび・さびというキンピカではない文化を確立した。これが、今の日本を落ち着いた文明にしている。

このように、漢民族の良さを日本はよりよく取り入れている。しかし南宋以後、漢民族ではなく異民族支配になり、漢民族が持っていた優れた文化が中国では失われている。異民族の強引さがないと潰されるという感じが強い。礼儀より武力という感覚である。

摩訶止観

日本の武道の精神修養は、天台宗の摩訶止観の常行三昧から出ている。摩訶止観には、夢想の境地に達する方法として、常座三昧(座禅)、半座半行三昧(称名念仏)、常行三昧(繰り返しの運動)の3つの方法があると教えている。称名念仏として、日蓮宗と浄土真宗が出てくるし、常行三昧としては天理教が出てくる。しかし、常行三昧は、武道に大きな影響を与えた。

この摩訶止観の三昧がやっと脳科学でも評価されて、マインドフルネスと健康に良いことであると世界的な権威が推奨し始めている。

そのマインドフルネス自体を、日本ではいろいろな実験を重ねて、座禅や念仏や武道などと多種多様な精神修養にしているのである。

そして、江戸時代の武士であった鈴木正三が農民になり、農業も繰り返しの作業で、武道の精神修養であるから仏行であるとした。それを石田梅岩が商業も工業も繰り返しの作業であり、論語の精神で行えば、正しい行いであり、その労働から得る利潤も正しいと石門心学で教えた。この石門心学が二宮尊徳や松下幸之助の哲学に発展する。

このため、日本の仕事は精神修行となり、サラリーマン道やラーメン道などと精神修行としたのであるが、この思想も徐々に論語と石門心学が廃れて、西洋の合理主義が幅をきかせてきて、仕事を悪と考えはじめている。そうしないとプレミアム・フライデーなどということが出てこない。

日本では残虐な事件が少ない原因はこの精神修養のためであると思われる。それも多くの人がサラリーマンになり、サラリーマン道という修行をしているからである。

しかし現在、仕事は自発性のものであり、強制されて行うことではなく自分の考えで行うことであるという精神修行性を放棄して、欧米と同じような命令や強制が強くなっていることで、昔の仕事とは違うことになっているのであろう。

それが日本の良さを放棄しているように感じる。ブラック企業の根本は、社長が論語や石門心学を学んでいないことによるようだ。仕事を精神修養にしたほうが成績が上がるということを知らないようである。もちろん、数値化や作業の学習方法はある程度文書化して見える化したほうが良いが、全てを見える化できないので、精神修養的な部分も残すことである。それを各個人の工夫という。

MBAなどに日本企業が出てくるが、その根本は、仕事を修行として行うことで、製品に魂が乗り移ることであると思う。そして、作業所をキレイにするという行動もそこから出てくる。しかし、仕事を修行とはMBAでは言わない。宗教的な色彩を拒否しているからで、そのため、仕事場をキレイにするという現象を説明することになるが、それでは不足している。このため、本当に仕事ができるのが日本人しかいないことになる。

このため、日本企業は日本人を世界に送り、作業指導をすることになる。仕事は修行という精神修養であると自社社員だけに伝えるためである。

明治より江戸時代に

このように、江戸時代に日本の文化の基礎はできたのに、今の日本会議など保守派は、明治憲法に戻れと西洋文化を絶対と考えた明治の時代に戻ろうとしている。

明治の時代が日本にとっては特殊な時代であり、西洋文化を取り入れないと植民地化される可能性があったから、西洋文明を善悪を考えずに取り入れたのである。その大きなものが国家君主制度であり、天皇を絶対的な存在にしたことである。平安時代以前の昔にしか存在しない制度であり、日本には馴染まない

江戸時代までは、天皇は権威、将軍が権力、町人は財力と力の分散を図り、安定した社会を作っていた。しかし、権力と権威と財力をすべて明治政府が握り、そのため、腐敗や権力闘争が激化することになる。最後には軍部が支配して、戦争で日本を潰してしまうことになる。明治体制は大失敗な組織体制であることがハッキリしている。

江戸時代は権力者である武士は貧乏であり、精神性だけで農民や市民を支配していた。

現在も徐々に統制経済や独裁主義的な政治に世界がなってきたことで、日本も同じような方向に向けようとしているように感じるが、それは間違いである。明治ではなく江戸時代に戻る必要があるのだ。

町人の代表者である町年寄りが江戸の町を幕府の意向とは違い、干渉されずに、町人が望む仕組みを作り、お互いが助け合い暮らす町にしたのが江戸時代である。これが理想だ。

町人は幕府から干渉を受けなかった。もちろん、時々、改革と称して商家の贅沢を懲らしめたが、一般の町人には関係がなかった。農本主義がおかしいと商業からも税金を取ろうとした田沼意次が失脚したことで、江戸時代は終わったように感じる。

今の日本の問題は

江戸時代が終わった原因は、幕府に金がなかったことによる今の政府と同じである。税金の取り方や使い方が歪になると、その政府は、いつか潰れる。しかし、潰れると庶民にも大きな不の影響を与えるので、早く経済成長するモデルに変更する必要があるが、国民は、ジャパン・ファーストと移民モデルを拒否している。

中国は膨張主義になり、アジア諸国を昔の冊封体制に戻す動きをしている。この動きを止めるには、経済成長モデルを取り、余裕ある予算にして、予算の一部を軍事力の増強に向けないといけないが、安倍政権でも移民政策を大胆には取れずに、ジリ貧の状態である。

日本文化の根本を知った日本人が世界に出て、それを世界が受け入れられるような仕組みにして、世界を住みやすい社会にすることが我々日本人に与えられた使命である。その使命を実行するためにも、早く経済成長モデルを作り、使命を実現するような予算が組める社会に変革しないとダメである。

小手先の金融の量的緩和政策では、そのような経済成長モデルではない。どうか、早く気が付いて欲しいものである。

さあ、どうなりますか?

image by: Shutterstock.com

 

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【著者】 津田慶治 【月額】 初月無料!月額660円(税込) 【発行周期】 毎月 第1〜4月曜日 発行予定

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