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誤解された「尊皇攘夷」。日本を救った吉田松陰が遺したもの

志士を弾圧する老中・間部詮勝の暗殺を計画したことで、わずか数え30歳で死刑となった吉田松陰。しかし、その遺志は松下村塾の門下生に受け継がれ、彼らは日本を近代国家たらしめました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、死を前にした吉田松陰が残した思いを振り返りながら、「尊皇攘夷」の意味について今一度考えます。

吉田松陰の「留魂」

安政6(1859)年、志士を弾圧していた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃を計画した事で、吉田松陰は10月27日に死罪を申し渡された。その時に立ち会った長州藩士・小幡高政は次のような談話を残している。

すぐに死罪を申し渡す文書の読み聞かせがあり、そのあと役人が松陰に、「立ちませい!」と告げます。すると、松陰は立ち上がり、私の方を向いて、ほほ笑みながら一礼し、ふたたび潜戸から出て行ったのです。

 

すると……、その直後、朗々と漢詩を吟ずる声が聞こえました。それは、「吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠悠たり天地の事。鑑照は明神にあり」という漢詩です。

 

その時、まだ幕府の役人たちは、席に座っていましたが、厳粛な顔つきで襟を正して聞いていました。私は、まるで胸をえぐられるような思いでした。護送の役人たちも、松陰が吟ずるのを止めることも忘れて、それに聞き入っていました。

 

しかし、漢詩の吟詠が終わると、役人たちは、われに返り、あわてて松陰を駕籠に入らせ、急いで伝馬町の獄に向かったのです。

その後、処刑場でのふるまいに関しても、1人の幕府の役人は「みな感動して泣いていました」という談話を残している。こうして吉田松陰は、数え年30歳で、生涯を閉じた。

「私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます」

この前日26日の夕刻に書き終えたのが、自分の門人たちにあてた遺言書とも言うべき『留魂録(りゅうこんろく)』だった。

そこでは、幕府の役人の取り調べの状況を綴りながら、「私は昨年(安政5年)から、心のありようが、さまざまに変化してきました」と、心の揺れ動く様を正直に吐露している。そして、その後、死を前にした心境を次のように語った。

今、私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます。それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

 

…稲は、春に種をまき、夏に稲を植え、秋に刈り取り、冬には収穫を蓄えます。…

 

私は今、30歳です。何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに「惜しい」ことでしょう。

 

しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの「収穫の時」を迎えたのではないか、と思っています。どうして、その「収穫の時」を、悲しむ必要があるでしょう。

「収穫の時」

何一つ成功させることができないまま30歳で死んでいきます」とは、松陰の外形的な業績に関しては事実である。山鹿流兵学の家を継ぎ、11歳で毛利藩主に御前講義までして「神童」として将来を嘱望されたが、九州や東北に遊学、その途中で友との約束の期日を守るために、藩の許可を得る前に出発してしまい、結果的に脱藩となる。

その後、ペリーの黒船が浦賀に来航した際に、国防のために西洋文明を学ぼうと乗船を求めたが拒否され[、幕府に自首。しばらく長州萩の野山獄に幽囚となった後、生家に蟄居となった、この時に松下村塾を開き門人の教育に励んだ

そして今度は、老中・間部詮勝の要撃計画がもとで、死刑の判決を受けたのである。この松陰の人生のどこが収穫の時なのか。松陰はこう続ける。

私は、すでに30歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その実が、じつはカラばかりで中身のないものなのか…、あるいは、りっぱな中身がつまったものなのか…、それは本人である私にはわかりません。

 

けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を「あわれ」と思う人がいて、その誠の心を「私が受け継ごう」と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば1粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

 

もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春・夏・秋・冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えて下さい。

「私の魂が七たび生まれ変わることができれば」

「同志が私のささやかな誠の心を受け継ごうと思ってくれたら」という松陰の思いは「七生説(しちしょうせつ)」に基づいている。

「七生説」とは、楠木正成が朝敵・足利高氏に勝ち目のない戦を挑み、最後には弟・正季と差し違えて死ぬ直前に「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばや(滅ぼしたい)」と言って、からからと笑ったという史話に依る。

松陰はこの3年前、安政3(1856)年に『七生説』という一文を書いた。そこでは、三度、湊川(兵庫県神戸市)の楠公正成の墓所を参拝して、そのたびに涙が溢れて、止めることができなかったと述べている。

自分と正成は血縁でもなく、会った事すらないのに、なぜ涙が流れるのか。それは自分と楠公の心が一つにつながっているからではないのか。

私はつまらない人間ですが、聖人とか賢人と呼ばれる立派な人々と同じ心をもち、忠義と孝行を実践して生きたいと思っています。現実的には、わが国を盛大な国にして、海外から日本を侵略しようとやってくる欧米列強を撃退したい、という理想を持っています。

しかし、行動は失敗し、結果的には不忠、不幸の人になってしまった。しかし、自分は楠公の心を自分の心としている。

私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです。そして私の魂が、七たび生まれ変わることができれば、その時、はじめて私は、「それでよし」と思うでしょう。

「尊皇攘夷」

松陰が志していた「尊皇攘夷」とは、よく誤解されているように「鎖国を維持して天皇制を守ろう」などというイデオロギーではなかった。「尊皇」とは皇室を中心に日本国が一つにまとまる事であり、「攘夷」とは、それによって欧米諸国の侵略から国を守ろう、ということであった。

20年ほど前に、清帝国がアヘンを売りつける英国と戦端を開いたが、国内の分裂で敗れ、半植民地状態に追い込まれた事は、わが国の朝野に衝撃を与えていた。江戸幕藩体制のもとでは日本は各藩に分立しており、国内の統一が急務であることは誰の目にも明らかであった。

尊皇」とは、天皇を中心として日本を一つの国家にまとめようということで、そのためには徳川幕府を倒して新政府を作ろうという「倒幕」の道と、幕府と朝廷の力を合わせて国家をまとめようとする「佐幕」の二つの道があった。ともに「尊皇」という点では同じである。

攘夷」も、「鎖国を続けたまま戦うという道もあれば、「開国して西洋の技術を導入しつつ防衛を強化するという道もあった。どちらにしても「攘夷」という点では同じである。結局、明治新政府は「倒幕」による「尊皇」と、「開国」による「攘夷」という道をとったのである。

神道思想家の葦津珍彦(あいづ・うずひこ)氏は、「攘夷の意義について、こう指摘している。

日本民族が国際交通を始める前に、まず攘夷の精神によって独立と抵抗の決意を鍛錬したことは、決して無意味だったのではない。この精神的準備の前提なくしては、おそらく明治の日本は、国の独立を守りぬくことができなかったであろうし、植民地化せざるをえなかっただろう。
(『大アジア主義と頭山満』)

「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも」

「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです」という松陰の遺志はその通りに松下村塾の門下生らに引き継がれた高杉晋作は、こう手紙に書いている。

松陰先生の首が、とうとう幕府の役人の手にかかりました。そうさせてしまったということ自体、まことに長州藩の恥というほかありません。そのことを口にするだけで、私は顔から汗が出てきそうです。先生と私は、師弟としての交わりを結びました。ですから私は、先生の仇を討たないままでは、心安らかに暮らしていくことなど、とてもできません。

この後、高杉晋作は元治元(1865)年の「功山寺挙兵」で勝利し、「禁門の変」のあと幕府への恭順を主張する「俗論派」を排斥して、長州藩の実権を握った。その上で、薩摩との盟約を結び、慶応2(1866)年の第二次長州征伐(四境戦争)では、ほぼ10倍の兵力を持つ幕府軍を破り明治維新への道を開く

明治新政府が発足すると、松下村塾で学んだ伊藤博文が初代の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布、日清・日露戦争の勝利と、日本国の独立維持の主柱となった。同じく塾で学んだ山県有朋も日本陸軍の基礎を築いて、「国軍の父」と称された。

松陰は生前、門人たちに「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも、魂魄(こんぱく)は此の世に留って、お前たちの身に添うて、必ず私の此の精神を貫く」と断言していた。

この言葉通り、松陰の魂は高杉晋作や伊藤博文、山県有朋らの身に沿って、日本が天皇の下に一つにまとまり、欧米諸国の侵略から独立を維持するという「尊皇攘夷の志を実現させたのである。

「けふの音(おと)ずれ 何ときくらん」

しかし、その松陰も人の子自分が死罪となった事を親が聞けばどれほど悲しむだろうか、と思わざるを得なかった。処刑の7日ほど前には家族あての手紙に、次のような歌を贈っている。

親思う心にまさる親ごころけふの音(おと)ずれ何ときくらん
(子が親を思う心以上に、子を思う親は、今日の報せをどのように聞くのだろう)

この頃、萩の実家では、長男の梅太郎と三男の敏三郎が病床にあり、看病に疲れ切って仮眠をとっていた両親は、同時に目が覚めた。母親はこう父親にこう言った。

私は今、とても妙な夢を見ました。寅次郎が、とてもよい血色で、そう……昔、九州の遊学から帰ってきた時よりも、もっと元気な姿で帰ってきたのです。「あら、うれしいこと、珍しいこと……」と声をかけようとしましたら、突然、寅次郎の姿は消えてしまい、目が覚めて、それで夢だったとわかったのです。

「もしかしたら寅次郎(松陰)の身に何かあったのではないか」と心配していたら、それから20日あまりも経って、江戸から松陰が「刑場の露と消えた」という報せが来た。指折り数えてみると、まさに夢を見たその時に松陰が処刑されていた

松陰が野山獄から江戸に送られる際に、一晩だけ家に帰る許しを得て、家族と最後の面会をした際に、母親が「もう一度、江戸から帰ってきて、機嫌のよい顔を見せておくれよ」と言うと、松陰は「お母さん、そんなことは、何でもありませんよ。私は、きっと元気な姿で帰ってきて、お母さんの、そのやさしいお顔をまた見にきますから……」と言った。

母親はその言葉を思い出して、後にこう語っていた。「たぶん寅次郎は、その時の約束を果たそうとして、私の夢のなかに入ってきて、血色のよい顔を見せてくれたのだろうね。親孝行な寅次郎のことだから、たぶん、ほんとうにそうなのだろうと、私は思っているよ」

「愛(かな)しき命積み重ね」

昭和の歌人・三井甲之(こうし)は次の絶唱を遺した。

ますらをの愛(かな)しき命積み重ね積み重ねまもる大和島根を
(男たちが悲しい命を幾重にも積み重ねつつ守り続けてきた、この大和の国を)

松陰や高杉晋作らをはじめとする幕末に殉じた志士たちをお祀りするために創建されたのが招魂社」、のちの「靖国神社」である。そこには「国を靖んずる」ために積み重ねられてきた「愛(かな)しき命」が250万柱近くも祀られている。

正成や松陰の志は幾世代もの世代に継承されて、我が国を護ってきた。これからも日本を護っていけるかどうかは今後の我々の生き方にかかっている

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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