そしてやがて早良親王は流罪となってしまいます。早良親王に与えられた刑はとても残酷なものでした。親王は幽閉されたのち、食と水を絶たれ餓死してしまいます。皇太子だった早良親王に対してこれほど残酷な刑が下されたことは当時はとても衝撃的な出来事でした。そして、このことが平安京遷都の決定的な契機となります。
早良親王が亡くなってから、桓武天皇の周りでは沢山の不幸が連続して続きます。中でも桓武天皇にとってショックが大きかったのは、母・高野新笠(にいがさ)と正妻・藤原乙牟漏(おとむろの)の死です。これは、早良親王が非業の死を遂げたことへの祟りだとされました。早良親王の祟りを鎮めるため、鎮魂の儀式が行われ、早良親王には崇道(すどう)天皇と天皇号が与えられ特別に祀られました。即位したことがなかった皇太子に対して死後、天皇号を与えることはかなり異例の扱いです。
弟の怨霊を恐れた桓武天皇は早良親王の怨念が残る長岡京から再びの遷都を決断します。その結果794年、桓武天皇は長岡京から平安京へ遷都します。これが学校で習った「鳴くよ(794)ウグイス平安京」ですね。
1人の人間の怨念が、国を大きく動かしたのです。京都の歴史はこうして始まったのです。平安京遷都に際して早良親王の怨霊は切っても切れないものです。実の兄に凄惨な仕打ちを受けた早良親王。その祟りが平安京遷都を決定づけ、以後明治維新まで1,200年の都になるのです。
京都は奈良の都からみて山の裏側だったので、山代(やましろ)とか山背(やましろ)と呼ばれていました。山城と改称したのは、桓武天皇が平安京を築いた時だったのです。山の裏側の田舎が都の中心である城に変わった革命的な出来事だったと言えるでしょう。
いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
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