そうすると、哲学的な命題も同じように考えることができるかもしれない。ハイデガーは「存在」について論じているが、一般の人にとって「存在」というものを考え続けることはあまり意味がないと思っている。「存在」を意識しなくても日常生活に何ら支障は出ないからだ。
しかし無意識にあったものを意識に置くことによって自分の見える風景が変わったり、気持ちが変化したりといったことはあり得るかもしれない。そうすると、「哲学を学ぶ必要があるのか?」といった昔からの問いに対する答えを用意できる気がする。
このように書いていくと「無意識」にする行動や言動が全て良くないものであると言っているように思われるかもしれない。当然私はそう考えてはいない。めまぐるしく変化する世の中で、全てをいちいち意識して考えながら生活することは現実的に不可能である。
さらに、インスピレーションなどの無意識での感性も私は面白いと思っている。「無意識」ではありながら、自分が生きて来た人生全てを使ってその対象を感じて評価するものがインスピレーションであると思っているので、「意識」して考えていないながらも、じっくり考える時以上の判断ができていることもあるだろう。
まだこの本を全て読んでいないので自分の中で考えがまとまっていないが、「無意識」と「意識」の議論はとても面白いように感じている。「考える」ということは「無意識」から「意識」にうつることだとすると、「意識」から「無意識」へうつることはどう表現するのが良いだろうか。
「意識」することと、ここで述べている「考えること」はある意味「言語化」することと同じだと思っている。そうすると私の中で言語化できないものは「考えること」ができないかもしれないと思っていた。この「意識」と「無意識」の関係を吟味することがヒントになるかもしれない。
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