前回の記事「タモリが言う『戦争がなくならない理由』が深くて考えさせられる」で、戦争と平和について持論を展開し好評を得た無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者・松尾英明さん。今回は「戦争に正義はあるのか」という、まさに「人類の命題」についてご自身の見解を記しています。
戦争に「justice」はあっても「正義」はない
最近、読んだ本から考えたこと。次の本を読んだ。
●『しない生活』小池龍之介・著 幻冬舎
自分の次の新著のテーマが「捨てる」なので、こういったテーマの本には関心がある。この本の中で、次の文が心のフックにひっかかった。
つまり、ものごとは、公平に、釣り合いが取れてなきゃ気が済まない、という強迫観念がつきまとっているのです。
この強迫観念につけられた名前こそまさに「正義(justice)感」という煩悩に他なりません。
人間というものは、「不公平」や「不平等」が気持ち悪くて仕方無いということである。しかし、実際の世の中は不平等だし不公平だというのが現実である。個人レベルでの不平等も、世界レベルで大きく見てバランスがとれている状態といえる。
私の尊敬する野口芳宏先生も「安心・安定・秩序・格差」と仰っている。安易な平等主義は、むしろ危険であるという(こういうことを言うと「平等主義」という「常識」に叩かれるから普通言わないのだが、それを言い切るのがすごい)。
「justice」の語幹「just」は天秤の釣り合いを示す。前にも紹介したことがあるが、タロットカードのNo.11「justice」の絵柄は、天秤と剣を持った「裁判の女神」の姿である。
裁判とは、物事を測る天秤が「正義」の水平を示すようバランスをとる行為に他ならない。つまり、罪の深い者に「正義の剣」で罰を与え、他方に利益をもたらすことで、両者のバランスをとろうとするものである。
難しいのは、その「正義の剣」を誰がふるうかという点である。歴史上では、「正義の剣」を持つものは、常に強者、勝者である。
日本は、降伏宣言を1945年8月15日にした。しかし、当時の敗戦国に「正義」の権利はない。ロシアが「そんなの知らない」といえば、ロシアの「正義」が通る。北方領土問題の解決の難しさは、「正義」の所在の違いである。
今、「正義の剣」は、どの国が握っているのか。言わずもがな、アメリカ合衆国に他ならない。世界中のどの国も、アメリカを無視しての国政は有り得ない。日本にとっても、アメリカの「核の傘」の恩恵は無視できないし、下手に沖縄から米軍を撤退させられない。
自衛隊の米軍への後方支援としての「人道支援」とは何なのかという、安保問題の難しさもある。結局、日本はアメリカの「正義の剣」によって、「平和」のバランスをとっているのが実情である。
つまり「平和に向けた正義の戦い」というのは、世界レベルの視点からいうと、有り得ない。ある特定の国の視点でしかない。
そもそも英語の「justice」と日本語の正義という言葉はイコールではない。日本語の「正義」には「人間行為の正しさ」という意味がある。戦争に「justice」はあっても「正義」はない。文化の違いである。
終戦記念日は、日本という国の在り方について考える機会にしたい。
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