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日本のアニメ制作をダメにする「ブラックボックス」問題

前回、窮状が改善されない日本のアニメ制作現場について解説してくださったメルマガ『Ministry of Film ゼロからのスタジオシステム』の小原康平さん。今回は業界が内包する現在のアニメ制作プロセスの問題点を詳述しています。アニメ制作現場すべての人たちに不利益をもたらしているという「ブラックボックス」状態とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

日本のテレビアニメーション産業の未来
―製作プロセスのテコ入れに関する考察と提案

具体策を講じます。前回の終わりに、2点の大目的を掲げました。その視点に基づき、今回は主に現制作プロセスの問題点を詳述します。その後、プロセスの変更ポイントを指摘し、その方法を提案します。この提案を実践するにあたって、周辺に介在する問題も芋づる式に解決していくのが狙いです。

長くなりましたので、今回の具体策は前編と後編に分けて展開させます。

ブラックボックス

アニメーションの現制作プロセスに問題があるとすれば、それはクリエイティブ面における「ブラックボックス」状態にあります。これはマクロな視点で言えば「産業」サイドから見た「業界」サイドの不透明感のことを指し、作品単位なら「製作側」から見た「制作プロセス」のそれだと言えます。言い換えれば「作品の出来が現場頼り」であること、つまり「産業全体の品質管理がおろそかである」ことを意味します。これを、本稿では「制作のブラックボックス感が強い」と表現することにします。

映像作品はもともと映像作家の作家性に頼って作られる傾向が強く、またそれを良しとする空気が製作者・消費者の双方にあります。テレビ放送作品でも劇場公開作品でも同じことですが、後者が特にその傾向を強く有していることは、みなさんも「○×監督最新作」「あの名作のスタッフが送る~」といった宣伝文句が常に有効であることから、よくご存知でしょう。「Auteur(=独自のスタイルを極める先鋭的な映像監督)」の力を称賛する傾向は、日本と世界、または実写とアニメーションの区別なく存在します。

筆者も、映像作品における作家性を軽視するつもりはありません。しかしこうした話題に触れるとき、国内外の映像制作のあり方の違いを「プロデューサーとディレクターのどちらが強い発言力を持っているか」という二元論に落とし込もうとする方が大勢います。これは極端に大雑把で、短絡的な物言いですので注意しなければなりません。

筆者が本稿の展開にあたって参考にしている北米の製作スタイルが、プロデューサーの役割を重んじていることに異論はありません。しかし、それは「システム」、つまり作業プロセスのあり方が規定している役割の重さから来ています。担当役職にいる個々人の発言力や影響力の強弱について言及しているわけではありませんし、ましてや彼らの能力の高低について言及するものでもありません。ここで展開する議論が、プロデューサー(を目指す者)の視点から見て、少なくともディレクターの権威を恣意的に貶める意図があるわけではないことをここに明示しておきます。

話を戻します。映像制作、特に日本のアニメーション制作のプロセスには、システムに依拠した「ブラックボックス」的欠陥があります。それは制作者たちのうち「ブラックボックス」の内側外側にいる者すべてに不利益をもたらしているのです。

「絵コンテ」の孤独

とはいえ、「ブラックボックス」が演出(監督)の担当領域の中にあることは想像に難くありませんね。「映像作家」の代表格は紛れもなく演出家であり、彼または彼女の感性映像作品品質全て規定するからです。思い描いたイメージを、いかにして映像に収めるか。それが演出家の直接的な仕事だとすれば、演出脳内こそ「ブラックボックス」だと言えます。

その一点においてアニメ制作のプロセスに問題があるとすれば、それは「ブラックボックス」を分解し、制作プロセスの中へ均等に組み込む機能が存在しないことにあります。特に制作プロセスのうち演出の担当領域である「絵コンテ」の工程は主に演出ただ1人の双肩にかかっており、何人たりとも介入できない仕組みになっています。

踏み込んで言えば、これは「総監督」または「監督」を頂点とした分業体制で「絵コンテ」担当者を複数抱えているような長編やテレビアニメーション作品の制作現場においても同じことが言えます。なぜなら「絵コンテ」はその場合でも、ひとまず完成品提出されるまで協議の対象出来ないからです。各担当者は宿題を抱えた小学生と同様に、「絵コンテ」を描き上げるまでひたすら1人で孤独に執筆をし続けなければなりません。

「絵コンテ(=ストーリーボード)」とは、アニメーション制作における設計図のようなものだとお考え下さい。どのようなカットが、どんなタイミングで、どのキャラクターをフレームに納め、どうセリフを口にし、いかにして動くかを、漫画のコマを並べたような専門の用紙に描いて解説した書類のことを指します。アニメーションにおける制作プロセスの解説は他所のサイト(次号引用します)に頼ることで割愛しますが、アニメーションは演出が「絵コンテ」を事細かに描き切ることによって初めて具体化されることは覚えておきましょう。

クリエイティブの寡占

この「絵コンテ」作業の性質上、アニメーションは実写作品と比べて随分早い段階骨組みが定まる、とも言えます。撮影と編集とを段階的にこなす実写作品とは異なり、アニメは多くのプロセスが「絵コンテ」という設計図でいっぺんに固まってしまうからです。特に日本製のアニメは、脚本が決定稿になった直後に「絵コンテ」の工程が組まれるので、制作工程の初期段階でクリエイティブ面の意思決定の大部分が一気になされます。

その上「絵コンテ」が一旦固まってしまうと、以後の変更はほぼ不可能になります。その設計図を元にして、アニメーター以下のスタッフが一斉に作業を開始してしまい、途中での方向修正が難しいからです。

このように、クリエイティブ面での方向性を確定するにあたって、アニメの制作現場は究極的な寡占状態を迎えるステップがある、ということがおわかりになるでしょうか。脚本が固まったあと、アニメーションの演出家は実写作品で言うところの「カメラマン」「照明」「美術」「役者」「編集」「特殊効果」その他あらゆるスタッフの役割を1人で請け負い、フレーム内の要素を頭の中で全て計算に入れながら黙々と紙に描き出す作業に没頭することになるのです。

このステップの在り方を良しとするか否かは、それこそ場合によりけりでしょう。天才的な才能を持った演出家なら他人の意見に惑わされず、ある程度まとまった形で独自性ある絵作りを明示することが出来ます。ただし、それには頭の中で思い描いたことを用紙へ的確に描き切る高度な感性技術力が必須です。

特にキャラクターのパフォーマンスに至ってはセリフの「間」「口調」「速さ」をはじめ、身のこなしや息つぎの方法に至るまでを前もって詳細に計算しておく必要がありますので、大変な想像力が求められます。アニメの演出家には、登場するキャラクターの数だけの多様な人格頭の中的確に再生できる能力が必要だということです。

もうお分かりでしょうか。アニメ演出の1ステップ=「絵コンテ」のクリエイティブ面における寡占状態は、有能な人材に無限大の裁量を与える反面、作品にとって適任でなかったり、あるいは未成熟だったりする人材には過度の期待苦難を強いるシステムだと言えるのです。

ボトルネックと品質管理不全

このようなステップの性質は、制作プロセスに深刻な弊害を生じさせます。制作の「ボトルネック」現象であり「品質管理の機能不全」がそれです。

アニメの制作現場が逼迫する要因には、大別して3つあると言えます。すなわち:

1.脚本執筆が難航し決定稿になるタイミングが大幅にずれ込むことによる制作期間の圧縮

2.演出(監督)の「絵コンテ」執筆作業が停滞することによる制作期間の圧縮

3.作画スタッフ不足による制作スピードの遅延と労働過多

上記のうち1. は主にプロデューサー・チームのスケジュールの管理責任、2. は主に演出と、演出を悩ませるような脚本に青信号を灯したプロデューサーの決定責任が重なり、3. はプロデューサーおよび業界全体の問題に依拠しています。いずれも制作を統括するプロデューサーが管理・統括の責任を追うことに変わりはありませんが、2. に関してはプロデューサーのおよそ管理の行き届かない領域で問題が起こっているとも言えます。

結果として「絵コンテ」作業の後に来るプロセスにしわ寄せが生じた場合、プロデューサーが作品の「品質」を保証できる手段がほぼ確実に失われていることがわかるでしょうか。それもこれも、演出家1人にクリエイティブの大部分を一任してしまうことによって、クリエイティブ面での「ボトルネック」現象をみすみす生み出してしまっていることが原因です。「一任する」と言えば聞こえは良いですが、その実は責任を「放棄している」のと同じことだとも言えるでしょう。

また「脚本を現場へ手渡した後の品質は、担当演出の作家性良い結果を生むことに期待するしかない」という状況は、人為的なミスを許容できないシステム上の欠陥に他なりません。演出が適任であるか否かの任命責任を別にしても、「演出家の感性」という名の「ブラックボックス」に対してなんら影響力を持てない統括者に、統括者としての資格があると言えるでしょうか?

周辺問題

ところで、スケジュールが逼迫せずとも、既存のアニメ制作プロセスには他にも数点の不利益があることも指摘しておかなければなりません。次回の具体策の詳述に向けて手短に3点、ご紹介しておきましょう。

1. 脚本および脚本家の権威の低迷

脚本が決定稿になった後、担当演出は場合により「絵コンテ」作業の過程でセリフや展開を改変する自由が与えられるケースがあります。そうした折、アニメ用に執筆される脚本の決定稿は実質的に下書き程度の役割しか持たず、完成品への影響力が総じて低い場合があるのです。これは脚本および脚本家の存在を結果的に軽視していることに繋がっています。ひいては脚本に求められる完成度が低く見積もられる弊害をも生じさせていると言えます。漫画などの原作を元にしたアニメ作品には少ない傾向ですが、逆にアニメ・オリジナルの作品では顕著に見られる光景です。

2. 声優または俳優の自由度の低迷

日本産のアニメは「絵コンテ」を完成させ、その後に作画を行うことはこれまで述べきた通りです。そのため、キャラクターの「声」の収録は作画を全て終わらせてから行うのが慣例です。日本では伝統的な手法である一方で、キャラクターの重要な要素である「声」はアニメーションに予め規定され、演者の自由度は常に高くない、あるいは演者は常にキャラクターありきの発声やパフォーマンスを要求されている、と言うことが出来ます。

3. クリエイティブ・チェックポイント数の希少性

脚本と絵コンテでのチェックポイントの後、実際の声の収録時までの間にクリエイティブなコメントを加えるチェックポイントが、実は製作側には与えられていない現実があります。つまり作品が動く映像として目に見える形を成してきた頃にはスケジュールがすでに佳境を迎えており、制作を統括する者、または出資者らは一切の口出しができない状態になっているのです。蓋を開けるまで中身がわからない「出たとこ勝負」なワークフローは、「ブラックボックス」的傾向を後押ししていると言って良いでしょう。

上記のいずれも総論として語るには不足があるかもしれませんが、これまでに述べてきた制作プロセスのあり方に端を発するような問題です。覚えておいて下さい。

具体策と次回予告

さて、ようやく具体策に言及できる頃合いになりましたが、問題の指摘があまりに長引いてしまいました。とはいえ、ここで次回にきっぱり持ち越してしまったら皆さんに怒られてしまいそうなので、結論だけは述べておこうと思います。

上記の諸問題の多くは、「作画」と「声」の作業プロセスを入れ替えることで大幅に改善する、と筆者は考えます。

つまり、筆者は 「『アフレコ』を撤廃し『プレスコ』を導入する」ことを提案したいのです。

では今回はここまで。次回、具体策(後編)でお会いしましょう。

文責:小原康平

image by: Shutterstock

 

Ministry of Film – ゼロからのスタジオシステム –
映画業界での国際的なキャリア構築を志す若手日本人著者が、米ロサンゼルスの権威ある映画大学院(AFI、USC)で学んだカリキュラムを下地に、実務レベルでの「ハリウッド」と、世界の映画事情を解説。メンバーのリアルタイムな活動記、映画レビュー、そして毎回異なるテーマでのコラムを中心に展開する。
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