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「浦島太郎」は、日本書紀の「浦嶋子伝記」の二次創作物だった?

三太郎シリーズがすっかり定着し新作を楽しみにしている人も多いauのテレビCM。今年9月に公開された「家族を話そう。」篇では、浦島太郎の命名秘話が明らかになりました。そんな「浦島太郎」について、名前と物語の由来を紐解いてくれたのが、無料メルマガ『古代史探求レポート』です。なんと、多くの人が知っているお話とは、主人公の名前も内容も違う「原作」があるというのですが…。

浦島さんは全国に4300人、横須賀市には250人ほど

auのテレビCMに三太郎が登場して随分時間がたちますが、登場人物が友達のままどんどん成長して子ども迄持つようになったのを見ると、そのストーリーの豊かさに感慨深さがあります。

最初は、桃太郎が中心で、有村架純のかぐや姫と結婚するなど話題を振りまきました。次に、浦島太郎が乙姫というツンデレ女性に片思いし、そして、少し前には金太郎にも幸せがやってきました。最もイケてないイメージでしたが、織姫の川栄李奈という恋人ができて、みんなカップルになりました。

auの三太郎の中では、浦島太郎のキャラが最も際立っているように思います。少し、抜けたところのある桐谷健太演じる「浦ちゃん」と、気が強い菜々緒の乙姫のカップルは卓越しています。そういう関係の男女の組み合わせが、最もうまくいく関係なのかもしれません。浦ちゃんの魅力は、能天気で明るいこと。浦島失恋物語に「ノンフィクションかよ」という突っ込みで返す明るさが何よりも魅力的です。今回は、この浦ちゃんについて少し考察して見たいと思います。

先日、テレビを見ていると浦ちゃんが名前に着目して、桃太郎、金太郎に対して浦島太郎は、浦島が名字で太郎が名前。ただの「太郎」は何も無いシンプルなのが良いというのです。では、そもそも浦島太郎の浦島は名字で、太郎が名前というのは合っているのでしょうか?

現在、浦島という名字を持つ人は、全国に4300人ぐらいいるのだそうです。都道府県別で見ると、北海道、神奈川、富山、大阪、岩手に多く住んでおられます。中でも、神奈川県横須賀市には250人もの浦島さんがおられます。その中でも、横須賀市長井には、110人もの浦島さんが密集しています。他にも岩手県の釜石市に80人、大船渡市に60人、富山県の高岡市と魚津市に70人、広島の呉市に60人というのが多く住まれている地域です。海岸を持つ街だけに、浦島という地名が存在していたのではないかと思います。

神奈川県横須賀市は、ペリー来航で有名な浦賀の街です。この浦賀には、観福寺(観福寿寺という言い方もあるそうです)という寺がありました。明治六年に廃寺となり、今は慶運寺と蓮法寺という二つの寺がその遺構を受け継ぎます。

この観福寺の縁起を見ますと、「雄略天皇の時代(457年-479年)、相模国三浦半島出身の浦島太夫は、一家で丹後国に移住した。太夫には、太郎重長という息子がいた。(中略)300年もの間竜宮城にいたことを知るのであった。太郎は、父母の菩提を弔って小堂を建てて観音像と玉手箱を奉納すると、浜辺から何処ともなく消え去っていった。(中略)人々は、太郎の建てた小堂を立派な寺院として建て直し、太郎を浦島大明神、乙姫を亀化龍女神として像を造り、観音像とともに信仰している」。つまり、観福寺は浦島太郎が立てた寺であるというのです。また、ここには浦島太郎の墓というのも存在しています。

とんでもない話だとも思うのですが、この地の浦島という家名は、戦国時代から存在しており北条氏の家来であったこともわかっています。では、浦島太郎の子孫である可能性はあるのかという疑問が沸くのですが、そもそもの縁起自体に問題があります。

まず「浦島太夫」という呼び方がおかしい。太夫(たゆう)というのは竹本義太夫に代表されるように江戸時代に流行した呼び名です。遊郭の花魁にも用いられ高貴な人の呼称となりました。

中国を真似て日本に取り込まれた称号は、大夫(だいぶ)であり、貴族である人の呼称として用いられました。貴族であるというのは、五位以上の位をもらっていたということです。横須賀の浦賀の地に官吏として赴任した貴族がいたという可能性を百パーセント否定することはできませんが、この地は七世紀にできた相模国三浦郡(御浦郡)で、国府のあった海老名や平塚、大磯あたりならまだしも、三浦郡の郡衙のあった葉山からも遠く離れた場所です。まず、あり得ないのです。

ましてや、雄略天皇の時代はまだ武蔵国の一部です。すなわち、武蔵国のさきたま古墳出土の鉄剣に杖刀人首としてオワケが名前を刻んだ時代に、その武蔵国の端の端に貴族が赴任していたということは、やはりあり得ないのです。

その子どもの名前が太郎重長といったというと、最早完全に嘘だろうということになります。なぜなら、太郎という名前は、嵯峨天皇の第一皇子につけたのが最初だからです。嵯峨天皇は八百年頃の人ですから、雄略天皇の時とはかけ離れています。つまり、縁起の内容自体に無理があるのです。加えて、重長という名前は、戦国時代の名前です。縁起自体が作られたのが江戸時代で、創作であったということかと推測します。

浦島太郎の「原作」は日本書紀の記述だった

そもそも、浦島太郎の話はいつ頃の話なのかというと、日本書紀の雄略天皇の二十二年に以下のような記述として残されています。「秋七月、丹波国余社郡管川の人、瑞江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)は船に乗り釣りをし、遂に大亀を得る。亀はたちまち女になる。浦嶋子は感じ婦(妻)にした。あい従って海に入り、蓬莱山に至って、仙衆(ひじり、仙人のこと)を見る。この(物)語は別巻にあり」とされています。

これだけの記述で終わっています。つまり、日本書紀は正史ですから、史実の一つとして瑞江浦嶋子の話を掲載しているのです。丹波国余社郡管川は、京都府与謝郡伊根町筒川です。この伊根町には、浦嶋神社(宇良神社)が存在し、浦島子の伝説を伝えています。

非常に面白いのは、どこまで本気であったのかわかりませんが、鎌倉時代初期に作られた「水鏡」の淳和天皇の条の中には次のような記述があります。

「天長二年十一月四日に、帝は嵯峨法皇の四十歳のお祝いをなさった。今年、浦島子が帰った。持ってきた玉の箱を開けたら、紫の雲が西の方に昇って、若かった体はたちまち翁となり、歩くこともおぼつかないほどになった。雄略天皇の時代にいなくなって、今年、三百四十七年目に帰ってきたのだ」

これが元で浦島太郎の話ができたわけではありません。日本書紀の中にも、語は別巻にありと書かれていたように、原本はありませんが、丹後国風土記の中にその話は残ります。

この浦島子伝記を書いたのは、伊余部馬養(いよべのうまかい)という人です。大宝律令の選定に関わった才人で、多くの漢詩も残しています。彼の書いた「浦島子伝記」には、既に、結末も語られていましたので、水鏡の作者がこの話を読み、面白がって文中に記載したのです。そうすることで物語は真実になり、物語の描く世界は現実に存在するという夢を見せてくれたのです。

日本書紀の「原作」が室町、明治と変遷

浦島子が、浦島太郎という名前になったのは室町時代ぐらいに完成した「御伽草子」の中での事です。古くからの御伽噺を、まとめてわかりやすくしたもので、この時に、名前や、物語の内容も少しその時代に合うように変えられています。この御伽草子の中には、ものぐさ太郎、福富太郎などがあり、太郎という名前が一般的であり、流行していたのだと思われます。この時に「太郎」の名前がつけられたのです。確かに、シンプルですが浦島太郎は、浦島子が名前であり、もし、名字として分けるというなら、瑞江が正しい分け方なのです。

伊根町にある宇良神社が示すように、今の呼称である「浦ちゃん」というのは非常に的を射た呼び方であり、愛称だと思います。伊根町では、現実に浦ちゃんと呼ばれていた可能性はあります。

さて、このオリジナルの浦島子の話は、私達の知っている浦島太郎の話と少し違います。私達の知っている浦島太郎は「助けた亀に連れられ竜宮城に」行きますが、オリジナルの方は、自分で釣った亀が女性になり、好きになって結婚して一緒に蓬莱山に出かけます。

助けた亀は、恩返しの話ですから、鶴の恩返しと同じです。にもかかわらず、亀を助けたばっかりに、おじいさんになってしまっては可哀想じゃないかという声も聞こえてきそうです。いやいやとんでもない、亀を助けたから竜宮城で300年間もドンチャン騒ぎをしていたから十分でしょう、という意見もあるかもしれません。

一方の原作では、自分で釣った亀を奥さんにして、仙人の住む不老不死の山蓬莱山に行くのです。狩猟民族的な考え方であり、偶然はあるにせよ、自分の力によって当時理想とされた不老不死を獲得するというのは大人のお話だということがわかります。

そんな大人の童話が、どうして子ども向けの物語に変化したのかというと、それは巌谷小波(いわやさざなみ)という明治の児童文学者の仕業なのです。彼が変えてしまった浦島太郎は、日本の伝承物語として尊ばれ、教科書に掲載されるようになりました。昭和二十年頃まで「浦島太郎」の話は、小学校二年生の教科書に載せられていました。その上、唱歌として学校で歌われたのです。このため、日本中の人が必ず知っているお話となったのです。

青春を謳歌するauの現代版・浦島太郎

しかし、私は、巌谷小波の改変は決して褒められたものではないと考えるのです。巌谷小波は浦島太郎の話の中で何を言いたかったのでしょうか。伊余部馬養の浦島子伝説は、人々が欲しかった夢のお話です。皆、浦島子に憧れて自分もそうなれば良いなーと考えた姿なのです。釣った亀が、美しい女性に変化し、妻になるのです。そして、仙人の島にゆき不老長寿を手に入れます。その上で、永遠の生命ではなく、死の直前まで若くいての三百年後の死を手に入れるのです。

それにひきかえ、巌谷小波はいじめられていた亀をお金で買って逃がしてやります。すると、亀が恩返しとして迎えにきて、海の中にある竜宮城という別世界に連れて行ってくれます。乙姫様の舞、魚たちのもてなし、見たこともない美しい世界、そこで三年間過ごします。つまり、亀を助けたことにより、三年分だけ遊べたわけです。そして、戻った太郎は玉手箱を開けてしまい、年寄りになります。つまり、浦島太郎は亀を助けたために、実質その後三年間しか生きることができなかったわけです。そんな不条理なことってあるでしょうか。

小学生はこの話を教えられ、どう考えるのでしょうか。亀を助けるべきではなかった。余計なことをしたと思うのでしょうか。玉手箱を開けてはいけないと言われて約束したのに、その言いつけを守らないからひどい目にあったということを学ぶのでしょうか。私は、小学二年生の教材としても、どうかと思います。古来からの日本の伝承という意味で学ぶのであれば、オリジナルの話を提供すべきであったのではないでしょうか。いずれにしろ、小学校の二年生に、不老不死や神仙思想を理解させるのは難しいと思います。

今の子どもたちは、浦島太郎を学ぶ機会はありません。日本昔ばなしか、絵本を通してしか、浦島太郎に触れることはないのです。この巌谷小波の現代版浦島太郎であるなら、それもいいのではないかと思います。もしかすると、auのCMが作るイメージによって浦島太郎を知るのかもしれません。auの浦島太郎は、玉手箱を開ける前の浦島太郎です。今の青春を謳歌している太郎に、菜々緒の乙姫は玉手箱を渡さないのではないかと思います。玉手箱は、生への絶望を救ってくれる宝箱なのですから。

編集後記

auの浦島太郎は、漁師という仕事をこなしながら、桃太郎や金太郎という友達と、乙姫という恋人を手にしています。海を見て歌い、いろんなことに飛び込んでチャレンジをしています。浦島子伝説にも浦島太郎の物語にもなかった、青春を謳歌する姿があります。それこそが、一番幸せな姿なのではないでしょうか。そして、確かに、現代のキラキラした青春時代を支えているのはauに限りませんが、携帯電話なのかもしれないと思うのです。

image by: Matthieu Tuffet / Shutterstock.com

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