終業式のお約束といえば、通知表。開くときのドキドキ感を経験したことがない方はいないはずですよね。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師でもある松尾英明さんが、「通知表はもう必要ないのではないか」とし、文科省が定める通知表の位置づけと評価の弊害を論じています。
通知表って何なんだ
通知表とは、法的にどのような位置づけのものなのか。メルマガのタイトルに「二十代」を冠していることもあり、老婆心ながら記す。以下、文科省のH.P.より引用である(元々が表になっているので、表記の都合上、一部改変して記す)。
通知表(通信簿)
【法的な性格と内容】
- 保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。法的な根拠はなし
【作成主体】
- 作成、様式、内容等はすべて校長の裁量
- 自治体によっては校長会等で様式の参考例を作成している場合も
【文部科学省の関与】
- なし
文部科学省のH.P.に記されていながら、「関与なし」なのである。つまり、法的には、なくても問題ない。「慣例」である(ただし、指導要録は教育委員会の定めた様式で作成する必要がある)。
要は、法的根拠がないとはいえ、家庭の理解や協力を求めるのが存在理由である。「子どもを励ます」というのは、正当な気がするので誰も反論しないだけで、実は時代の流れにおける後付けの理由である。あくまで、保護者向けである。
個人的には、もう、これは、なくてもいい気がする。子どもも保護者も、評価されるのが、本当に嬉しいのだろうか(道徳の記述評価が嬉しいのか、役に立つのかは、さらに疑問である)。「知りたい」というのはわからないでもないが、実際、保護者が知ってどうこうできるものでもない。現場での実感である。
「正しい評価」の弊害の面も考える必要がある。例えば私は、当時相対評価だから仕方ないが「C」をくらった教科がいくつかある。一生懸命やっての「C」である。もちろん、嫌いになったし、今でもそれらの教科は不得意だと思い込んでいる面がある。
一方で、以前紹介したが、5段階で「音楽1」を付けられた子どもが、世界的な音楽家になることもある。別に1だから発奮した訳ではなく、評価した側のミスである。評価者の「見る目」の問題である。
通知表は、何のためにあるのか。学校の「当たり前」を見直すべきものの一つである。
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