中曽根康弘元首相が11月29日に101歳で亡くなりました。「大勲位」と呼ばれた大政治家との浅からぬ縁について回想するのは、メルマガ『NEWSを疑え!』を主宰する軍事アナリストの小川和久さんです。小川さんは、自衛隊生徒時代に聴いた講話から始まり、組閣の際に意見を求められたこと、首相官邸の機能強化への決意を聞いたエピソードなどを披露。さらに、ポスト安倍の首相候補を評価する指針になると、「総理になるために10年間準備した」という言葉とその内容を紹介しています。
中曽根大勲位、かく語りき
福岡出張の機中で中曽根康弘元首相の訃報に接し、色んなことが思い出されました。
まず、自衛隊生徒1年生と2年生の時、横須賀市武山の駐屯地劇場で、まだ42、3歳だった中曽根さんの講話を聞いたこと。1961年と62年のことです。
そのときの話で憶えているのは、海軍の主計将校時代に米軍に撃沈され、死体と油の浮く海を泳いで九死に一生を得た話くらいですが、その同じ駐屯地劇場の演壇に立って、何回も自分が講話をするとは思ってもみませんでした。生徒の後輩たちに語りかけながら、中曽根さんの話を紹介したものです。
首相時代にも思い出があります。中曽根さんは水戸黄門の助さん格さんのような優れた秘書を2人と、服部半蔵のようなお庭番を駆使して、5年という当時としては異例の長期政権を実現したわけです。
1985年12月の内閣改造に当たり、お庭番が私に聞いてきました。「総理が、防衛庁長官は誰がいいかと言っています」。私はすかさず、「加藤紘一氏の留任がよいでしょう」と答えました。日米同盟を強化する一方、中国とも良好な関係を構築していくには、将来の首相候補の一人として嘱望される大物で、外務官僚出身ということで英語と中国語に堪能な加藤氏は適任だと考えたからです。
2時間ほどたって、お庭番から「加藤留任で決まりました」と連絡があり、私が加藤氏に伝えてよいかと聞くと、「どうぞ」ということでした。私は防衛庁に出向き、加藤氏に留任を告げると、「何を言っているんだい。オレはいまから離任の記者会見をするところなんだぞ」と信じてくれません。
数日後、加藤氏は「どうして留任が判ったんだい」と聞いてきましたが、新聞記者が中曽根首相の周辺から情報を取ったのと同じように受け止めていることが判りました。私は、自分が留任決定に関与したとは明かしませんでしたが、そんな風にしか私を見ていなかったのだとわかり、少し残念な気がしました。
1992年、日本に世界的なシンクタンクが必要なことを訴える企画『頭脳なき国家の悲劇』を『週刊現代』に連載していたとき、中曽根さんに取材させてもらいました。
中曽根さんはシンクタンク・世界平和研究所を設立したばかりで、キャリア官僚や自衛隊のエリートを研究員に配置しており、専門的能力はともかく、出身組織と協力関係を維持していくための「渡り廊下」として必要なのだと説明してくれました。
首相官邸の機能強化についても、「連合艦隊の旗艦」の位置づけにしようと意気込んで首相官邸に乗り込んでみたところ、列国では考えられないような光景に愕然となったという話もしてくれました。なんと、盗聴防止装置つきの電話が1本もなかったのです。
このとき、中曽根さんは「総理になるために10年間、準備した」と言っていました。準備とは主にブレーンとして使える人材の選定などですが、中曽根さんが多用した各種の審議会も、自分で厳選した専門家を「隠れ蓑」に使い、自分の考えを実現させることが目的だったと、正直に話してくれました。その点は、ポスト安倍で名前が挙がっている政治家の準備状況を評価するうえで、とても参考になる話です。
エピソードを書き出すときりがないのですが、最後に中曽根さんからの自筆の葉書のことを紹介しておきたいと思います。
中曽根さんの画才はつとに有名ですが、このときの葉書は政経文化画人展に出展された「夏軽井沢ゴルフ場」の絵柄でした。2002年9月12日の消印です。
その葉書に、ブルーブラックのインクで太い万年筆の字が記されています。「『日本は国境を守れるか』ありがたく拝読。御説の如く沿岸警備隊的組織を強化し、自衛隊出動を回避することは賢明だと思いました。ご健闘祈ります」。
私が拙い本で主張した「なぜ海上自衛隊のほかに海上保安庁が必要なのか」という思想的な整理の必要性について、それをきちんと読んでコメントしてくださったことが判りました。
84歳のときの中曽根さんの筆跡と軽井沢の絵を眺めながら、ご冥福を祈っている次第です。(小川和久)
image by: 首相官邸ホームページ [CC BY 4.0], via Wikimedia Commons