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なぜ豊臣秀吉は現在の大阪に政権の基盤となる城を築いたのか?

日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。今回、著者の山崎勝義さんが取り上げたのは大阪。現在に至るまでの大阪をざっと掘り下げるとともに、知られざる大坂城の話も紹介してくれます。信長の時代から決して落ちることのなかった要塞の存在と、現代においても特異な存在感を持つ大阪という都市は、切っても切れない興味深い関係にあるのかもしれません。

大阪は大阪で良い

結局、大阪府は大阪都にはならなかった。大阪を地元とする地方政党が出した提案を大阪に住む人たちが拒否した訳だから、実に分かりいい。地方自治の第一歩はこの結果ではなく、この過程にこそある。大阪は立派であった。

客観的に考えれば「大阪都(おおさかと)」という名前もどうかと思うし、その式で行けば京都府は「京都都(きょうとと)」になる訳だから、名称としては若干発展性に欠けると言わざるを得ない。センスという意味においても大阪は立派であった。

そもそも、日本第一の地方都市大阪が何も東京の真似などする必要はなく、問題があれば、たとえば府・市・区の二重・三重行政だったら、如何にすれば必要十分行政になるのかを考え、同様の問題を抱える日本各地の政令指定都市の範となれば実に痛快ではないか。

それに東京の制度も、都市として、また首都として果たしてどうなのかということもある。大阪は大阪でいい。小さな東京である必要はない

この大阪であるが、かつては大坂と表記した。その大坂の由来が定かではない。戦国期に蓮如が石山本願寺を建て、その宗教的勢力を拡大させていった頃には、ある程度はこの呼称が定着していたらしいが、やはり秀吉が大坂城(おおざかじょう)を築いてからが都市大坂の始まりであろう。

因みに大きな坂があったから、「大坂」という俗説があるが頗る怪しく、これに関してはおそらく「オサカ」=「小坂」の美称として「小」の字に変わり「大」の字をあてたものと思われる。そう仮定すれば、蓮如の頃というのも納得できる。一向宗門徒が自分たちの本拠地を小さな「小坂」ではなく、大きな「大坂」と呼んだのだろう。

明治期に入ってからは「大坂」が「大阪」に変わり、現在に至る訳であるが、この漢字の変化にも諸説ありはするものの、どれも大して面白くはない。

では何故、秀吉はこの地に政権の基盤となる城を築いたのだろうか。土木・建築の観点から言えば、太古、大阪一帯は海であったためにそのほとんどが低湿地であり、巨大建築の基礎地盤としては脆弱であった。唯一の例外が現在の大阪城域を北端に含む上町台地であった。ちょうど半島の突端の灯台のように大坂城天守は聳えていた訳である。

さらに石山本願寺跡というのが大きかった。信長が石山合戦(1570~1580)の折、実に10年の長きに亘りこの石山本願寺を囲んだが結局陥落はしなかった。これほどまでに地の利があったのである。そして、それは単に地勢的な意味だけではなかったのである。城砦化していたとは言え、一宗教勢力であった一向宗門徒が軍事勢力であった織田軍団を防ぎ得たのは、背後に中国の雄、毛利の支えがあったためである。

豊臣大坂城と徳川大坂城

豊臣政権は西国政権である。その政権内において毛利家の存在は実に大きかった。豊臣五大老のうち二人(毛利輝元・小早川隆景)が毛利家である。つまり、本願寺跡に拠を置き中国毛利からの後援を受けるというのが、この時代の最強防衛ラインであったのである。勿論、秀吉のそれは本願寺のスケールとは較べようもないくらいに巨大であった。

さらに港を開き、堺の商人を多く移住させた。これにより大坂城下は貿易都市としても発展し、併せて信長時代は半従状態であった堺の町は骨抜きになった。

こうして、中世末期の宗教都市と自治都市を飲み込んで近世大坂の町は造られたのである。ここに平城を中心とする、軍事、政治、経済都市としての近世城下町が一つの極相を迎えた。近世大名の秀吉にとって軍事、政治、経済は最早不可分であったのである。

この秀吉の大坂は、新たに造成した商業地や住宅地や港湾部をも抱き込んだ、惣構えであった。三国無双のこの城下町の繁栄は大坂の役まで続いた。豊臣氏と言えば、秀吉の死後あっという間に滅んだ感があるが、関ヶ原の役後も、摂河泉六十五万石の大大名であった訳だから、大坂城天守の雄姿は少なくとも30年間は仰ぎ見ることが出来たことになる。

東京都庁で25年だから、30年ともなれば結構馴染み深かった筈である。それが、大坂の役で灰燼に帰すこととなったのである。冬の陣後、家康によって外堀だけでなく、内堀までも埋められた話は有名だが、そのやり方についてはあまり知られていない。櫓や塀を壊して埋める、武器や武具を埋める、挙句には人の身体も刻んで入れるなど、苛烈を極めた。

無勢の大坂方に対して和睦となった冬の陣は、家康にとって余程の屈辱だったに違いない。夏の陣前後のこの無差別な仕打ちは尋常ではなく、豊臣氏の造った大坂は、それを記憶する人間諸共にこの世から消し去ってしまえと言わんばかりである。

大坂の役後、徹底的に破却した豊臣大坂城の上にまるごとドカッとのっけるように建てられたのが徳川大坂城である。今に残る大坂城はこの江戸期の縄張りである。皮肉なことだが、この徳川大坂城も幕末にその主の政権の終焉を告げる場となった。十四代家茂はこの城で病没し、十五代慶喜はこの城で鳥羽伏見の戦いでの自軍の苦戦を聞き這う這うの体で江戸へ逃亡した。

思えば、江戸の初めと江戸の終り、実に250年の時を隔てても、この大坂の城は決して戦では落ちなかった。その城の実力を信じ切れなかった主が自滅しただけであった。この城下町大阪で復興天守第一号の「大阪城」を見るたびにふとそんなことを思ったりなどする。

image by: Jmho at ja.wikipedia [CC0], via Wikimedia Commons

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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