例えば、タクシーに乗って目的のビルが近づいてきたときに運転手さんに知らせる、「このビルです」「そのビルです」「あのビルです」という言葉。このような「コソアド」と呼ばれる日本語の指示語について、メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんが考察。山崎さんは、単なる物理的な距離以外の条件も重ねることで、それぞれの指示語の定義付けを試みています。
コソアドのこと
日本語には「コソアド」と呼ばれる指示語がある。これが実に日本語的なのである。勿論、外国語、例えば英語などにおいても「this」「that」のように話者からの近遠関係で使い分けられる指示語は存在する。しかし日本語における指示語ほど豊かな意義環境を持つものは他のどの言語にも見当たらない。一応断っておくが、言語の優劣の話ではない、独自性の話である。
さて、その「コソアド」についてだが、不定のものを指すド系(「どれ」「どの」など)の他、コ系(「これ」「この」など)、ソ系(「それ」「その」など)、ア系(「あれ」「あの」など)というふうに分類することができるのだが、それらは単に話者との近遠関係でのみ使い分けられているという訳ではない。
そもそも英語の「this」「that」のような二者間の近遠対立を、日本語におけるコ・ソ・アという三者間にそのまま当てはめること自体、数的にも無理があり、そこはやはり日本語独自の概念による記述がなされなければならない。
ここで思考実験である。今、タクシーに乗っているとする。目的地の近くまでやって来たので運転手に具体的な指示を出している状況である。
「このビルです」 → ○
「そのビルです」 → ○
「あのビルです」 → ○
どれも適格文である。これに、間近に迫っているという距離的条件を付け加えると、
「このビルです」 → ○
「そのビルです」 → ○
「あのビルです」 → ×1
となり、「あのビルです」については完全不適格文とは言えないまでも、少なくとも違和感はある。
今度は逆に、結構離れているという距離的条件を付け加えると、
「このビルです」 → ×2
「そのビルです」 → ○
「あのビルです」 → ○
となり、「このビルです」が奇妙に感じる。やはり、「この」と「あの」は距離的条件によって使い分けられているように見える。
ここで敢えて前述の「×1」と「×2」が適格文になる状況を考えてみる。仮に距離的には近くてもごちゃごちゃとして分かりづらい区画だとしたら「あのビルです」はおかしくはない。また、距離的には離れていても誰もが知っているランドマーク的な建物なら「このビルです」も不自然ではないと思うのだが、どうか。
だとしたら、これは自分との物理的な距離というより寧ろ心情的な距離感(言い換えればある種の所有感覚)によると説明した方が正しいのではないか。いくら物理的には近くても「何度来ても分かりづらいな」と感じれば、我がもの、我が領分とはとても思えないから「あのビル」と言うだろうし、どんなに遠くにあっても「勿論よく知っている」と感じれば、我がもの、我が領分も同然であろうから「このビル」と言うであろう。
そして、そういった心情的距離はしばしば物理的距離と一致する場合が多いから、特殊な状況を想定しなければ、ほぼ物理的距離によって使い分けされているように見えるのである。
そういった事情を以下にまとめると、
- 自分のもの、または自分の領分に属すと捉えているもの
→ コ系指示語 - 自分のもの、または自分の領分には属さないと捉えているもの
→ ア系指示語
とすることができよう。
では、ソ系の指示語はどうであろう。前述のタクシー内では場面に関わらず使うことができた。実はそれはタクシーだからである。そこから運転手という存在を排除し、自分一人で車を運転している状況を想定すると忽ちこのソ系指示語は使えなくなるのである。
「この大通りの…あのビルの辺りだったと思うのだが…」。独り言を言うなら、こんな感じであろう。つまり、ソ系指示語は相手なくしては存在し得ないものなのである。そういった事情をまとめると、
- 相手のもの、または相手の領分に属すと捉えているもの
→ ソ系指示語
と言うことができるのである。
ここで改めて整理すると
- 自分のもの、または自分の領分に属すと捉えているもの
→ コ系指示語 - 相手のもの、または相手の領分に属すと捉えているもの
→ ソ系指示語 - 自分(またはその領分)にも相手(またはその領分)にも属さないと捉えているもの
→ ア系指示語
となる。
仮に今、それらに新たな名を付けるなら、
- コ系指示語 = 一人称的指示語
- ソ系指示語 = 二人称的指示語
- ア系指示語 = 三人称的指示語
としたいのだが、どうだろうか。
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