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タモリを“発掘”したジャズピアニスト・山下洋輔のラジカルな母と実直な父

日本を代表するジャズピアニストとして知られ、タモリの才能をいち早く見抜き芸能界デビューのきっかけを作った山下洋輔さん。肘や拳でピアノの鍵盤を叩く独自の奏法が印象的な山下さんですが、その「源」はどこにあるのでしょうか。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、山下さんご本人が語ったピアノとの出会い、そしてラジカルな母と実直な父との印象深いエピソードを綴るとともに、彼が「オフクロに感謝したい」と口にする、母親から受け継いだというある素質について紹介しています。

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山下洋輔/ジャズピアニスト「ピアノの鍵盤を肘で叩く演奏は母の楽観さ、クラシックの旋律にも似た親父の生き様」

インタビューの当日は渋谷のホテルでのディナーショーのスケジュールが入っていた。語り口調もその雰囲気も、品のようなものがにじみ出る、育ちの良さが育んだのだろう。メトロとかコスモポリタンとか、そんな中に身を置くジャズメン、そんな印象を抱いた。この雰囲気から奏でる彼のフリースタイルの演奏は、強情でしなやかで、背筋の伸びた、彼の生き方の自由さを語っているかのようだ。(根岸康雄)

ピアノは大正デモクラシーの時代に育ったオフクロの趣味

親父は感情をあらわにして怒ることもなかった。厳しい親父ではなかった。ただ黙っているだけだった。親父のあの寡黙さは、薩摩の気質を受け継いでいるに違いない。

後年、僕が調べたところによると、親父のおじいさんにあたる人は、維新の時に西郷隆盛と一緒に、鹿児島から東京に出てきて新政府に仕え、日本の近代の警察制度を築いた人だった。親父の父親、僕の祖父は鹿児島市内に設置された、当時日本で珍しかった西洋式のレンガ造りの監獄を設計した。

親父は三井鉱山の技師だった。石油が全盛になる以前の石炭が基幹産業だった時代に、お国のためにエネルギー供給の仕事に従事している、そんな思いが強かったのかもしれない。

母親の父は司法大臣で、オフクロは6人兄弟の末っ子。大正末期から昭和の初期にかけて、大正デモクラシーといわれる時代の自由な空気を吸い、伸び伸びと育った女性だ。

オフクロは外国映画にも詳しかった。うちにはブルースやワルツや、ダンス音楽のSPレコードがかなり大量にあったが、それはオフクが買い集めたものだった。

そのオフクロの子供の頃からの趣味がピアノだった。

自由な空気の中で育ったオフクロは結婚した当初、男の人より先にお風呂に入ってはいけないとか、新聞を踏んではいけないとか、親父の家族の薩摩的な家風に、ずいぶん戸惑ったらしい。

だが、それまで鹿児島出身者で占められていた我が家に、オフクロがはじめてラジカルさと、ハイカラを持ち込んだわけで。結果的にオフクロの存在が防波堤のような形になり、僕ら子供が自由に好きなことをやれる環境が整っていった気がしている。

オフクロが、嫁入り道具に持ってきたアップライトピアノの調べは、僕が生まれるずっと以前から、我が家を満たしていた。4、5歳の頃の僕は、ピアノの鍵盤に向かって耳から覚えた音を弾いていた覚えがある。

そんな姿に、オフクロは本格的に教えようとピアノの前に僕を座らせて楽譜を開いた。

でも、譜面を見ながら勉強のようにピアノを弾くのは、ちっとも楽しくなかった。ピアノは好き勝手に弾くものと、僕は幼い頃からそう思い込んでいた。だから、

「イヤだ!」

そう言って僕はピアノから離れたが以来、オフクロが僕にピアノを教えることはなかった。

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ピアノは遊び道具、泥だらけの手で鍵盤を触った

親父の転勤で、筑豊炭田があった福岡県の田川市に引っ越したのは、小学3年の時だった。僕は毎日のように炭鉱の子たちと、ボタ山に登ったりケンカしたり。泥んこになって家に帰って来て、外での遊びと同じように泥だらけの指でピアノを弾くので、

「汚い手で、鍵盤を汚すのはダメ!」

オフクロに強い口調でそう言われ、ピアノに鍵を掛けられてしまったことがあった。

子供時代、僕にとってピアノは遊び道具だった。

当時は近所の友だちもしょっちゅう家に遊びに来た。

「よく来たね」

はだしで遊びまわっている泥だらけの子でも、分け隔てなくオフクロはお菓子を出して歓待してくれた。

後年、音楽仲間が我が家に集まり泊まっていくようになったが、オフクロは朝ご飯を食べさせ、楽しそうに僕の友だちと話をしていた。

──若い人には親切にしなくっちゃ、そのうち出世するかもしれないからね。

オフクロはそんなことを思っていたんじゃないかな。

親父は鉱山技師をしていた田川時代も、判で押したように決まった時間に出勤して1分たがわず帰宅する、そんな毎日だった。親父の趣味といえば、たまに付き合いでやるゴルフと麻雀ぐらいか。

──お父さんは音楽とはまったく縁のない人だ。

僕はそう思っていたのだが。田川にいた頃、あれは確か年に何回か、炭鉱で働く人たちが我が家に集まる無礼講のような飲み会の席だった。

その宴席でハーモニカを吹く親父の姿を、たった一度だけ見たことがある。

あの曲は『埴生(はにゅう)の宿』だったか、『故郷の空』だったか。ハーモニカをガバッと抱えるようにして、クワーッと夢中になって、吹きまくるという感じだった。あの時の親父はまるでジャズメンのようだった。

普段は寡黙な鉱山技師、そんな親父のあんな姿を目撃したのは、後にも先にもあのとき一回きりだ。

僕らは3年間ほどで東京に戻ったが、親父はその後も田川の筑豊炭田の勤務で、単身赴任の生活を続けた。

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オフクロは…、賛成してくれると思っていたのだけれど

大学生だった兄貴が、スウィングジャズのバンドを作ると、僕もバンドに加わり、ジャズピアノを弾くようになる。中学3年の時だった。

ジャズのピアノ演奏は学生時代の一つの趣味、オフクロはそんな感じだったに違いない。でも、僕はジャズ演奏にのめり込んでいった。

──わっ、すごいな……

モダンジャズの新しい和音を耳にするたびに、しびれていた。

高校時代は演奏づけの毎日だった。いいジャズバンドの演奏を聴きに次から次へとジャズ喫茶に通った。うまい人と知り合いになって、ピアノの演奏を教えてもらったり。頭にはジャズのことしかなかった。

高校3年の頃になると、プロのバンドからも呼ばれるようになっていた。お酒を飲ませる店で、ダンス音楽を演奏すればお金にはなったが、僕がやりたいのはジャズの即興演奏だ。

ここにいる僕という人間を表現できない音楽は、弾いていて退屈でたまらない。

──やりたい音楽で暮らせたらいいな……

そんなことを思っていた高校3年の時に、ジョージ川口さんのバンドのメンバーに誘われて、渋谷のジャズ喫茶でジョージさんたちと演奏する機会を得た。

それは僕にとって一生思い出に残る、ものすごい体験だった。

「うちでやりたきゃ、来てもいいよ」

ステージが終わった後、ジョージさんに声をかけられて僕の道は決まった。大学なんか行ってるヒマはない、

──オレはプロのバンドマンになる!

そう決めた。

その日の夜、ジョージさんと演奏したギャラを手にウキウキしながら家に戻った。僕の決めたことに、オフクロは賛成してくれると思っていたんだ。オフクロはこれまで僕の判断することに反対したことがなかったし。

「“ジョージ川口とビッグ4”の演奏が聴きたい」

中学3年の時にオフクロにねだり、2人で有楽町のビデオホールのコンサートに行ったことがあって。

「よかったね」

と、オフクロと一緒になって感激したことがあったから。そんな憧れのバンドのステージで僕はピアノを演奏して、こうしてギャラをもらった。これからジョージさんのバンドのステージで、演奏できるのだ。これほどのチャンスがあるだろうか。自分のやりたい音楽で、暮らしていける道筋がついたんだ。

オフクロは「よくやった、よしよし、もうこれで安心だ」ぐらい、いってくれるものと思っていたんだ。ところが―、オフクロは冷たかった。僕の話を聞くと、

「ふーん……」

気のない目つきで僕を見て。

「洋輔、そんなことでいいのかい」

と。

「趣味で演奏するのはいいけど、それを仕事にするとなると話は違う。お酒を飲ませるような場所でピアノを弾くなんて、そういう水商売の世界はなんか暗黒街みたいな、ヤクザの人たちの世界のようだ」

「そんな世界に入っていかれたら、親としてはたまらないよ」

みたいなことをオフクロに言われたんだ。

僕は非常に憤慨した。真面目に考えて自分の道を進もうとしているのに、

──ひどいじゃないか!

オフクロにそう言われた僕は部屋に鍵をかけて閉じこもり、一晩中ピアノを弾いていた記憶がある。

あのとき、オフクロもホロッと涙を浮かべていたような気もしている。

それからしばらく、オフクロとはケンカ状態が続いた。

そういえばその頃、一度だけ福岡の田川から戻った親父とオフクロと、3人で話した思い出がある。そのときの言葉だったか、

「バカ」「やめろ」

と。

ジャズの演奏で生きていきたいという僕に、覚えている親父の意見はこの二言だけだ。

「すぐに決めず、大学に行って考える時間を持ちなさい」

そんな言葉で執拗に僕を説得していたオフクロは、妥協案として、

「洋輔、音楽大学というのがある」

と。

オフクロへの義理立てという気持ちもあった。ジャズもクラシックも音楽ということでは変わりがない。ピアノがうまく弾けるようになるためなら、何でもやりたいと思っていた僕は、オフクロの提案にうなずいた。音楽大の作曲科に進んだ。

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親父のクラシック音楽のような旋律を感じる生きざま

あれは音楽大に入ってからのことだった。ある日、僕は親父からコースターを渡された。コースターの裏には、「洋輔君へ」と書かれた作曲家の中村八大さんのサインがあった。

──音楽とはまったく縁がないと思っていたお父さんが…。

──音楽の道に進みたいと告げた時、「バカ」「やめろ」とだけしか口にした寡黙なお父さんが……。

意外だった。多分、レストランかバーでピアノの演奏をしていた中村八大さんを見かけて、

「実はうちの息子もシャズビアノをやりたいといっている。あなたを尊敬しています」

とか話をして、演奏家を目指す僕の励みになればと、サインをもらったのだろう。

振り返ると、音大に入った頃から案外、親父は僕を応援してくれていたのかもしれない。

晩年、親父は持病の糖尿病を患いながらも、医者に言われた通りに決まった時間に散歩をする日課を欠かさず、食事も決められたものをキチッと摂って。親父の療養生活は「うちの病院の宝だ」と、かかりつけ医に言わせるほどだった。

ステージでの即興演奏を奏でられる音楽はジャズしかない。だが即興演奏に入る前には、ステージの上のミュージシャンが気を合わせて奏でる、一定の旋律が必要となることもある。

自分に課したことをただひたすら守り、やり続ける。変化を嫌うように、毎日きちんとなぞるような親父の人生、それは一つの旋律のようで、どこかクラシックの曲にも似た美しさがあると最近、僕は感じている。

人がやっていることをやったのでは意味がない。僕なりの新しい表現をしたいという意欲が、フリー・フォーム・ジャズと呼ばれる僕の今の演奏の形になっていった。

その時の気分次第で、ピアノの鍵盤を肘で叩く僕の演奏は、根暗な人ではちょっとできない。根っから楽観的で明るい僕の性根、それはオフクロと相通じる資質だ。僕が母親の資質を受け継いでいるとしたら、オフクロに感謝したい。ありがたい。

(ビッグコミックオリジナル2005年4月5日号掲載)

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image by: Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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【著者】 根岸康雄 【月額】 ¥385/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎月 第1木曜日・第2木曜日・第3木曜日・第4木曜日

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