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失言どころじゃない差別発言を「石原節」ともてはやしたメディアの大罪

2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎氏。その死を悼むのは当然のことながら、石原氏の失言を超えた暴言や差別的発言、そしてそれを許してきたと言っても過言ではないメディアや社会の有り様に関する議論は、封殺されるべきことではありません。今回、暴言をただすことができなくなっている政治をめぐる言論環境の「正常化」を主張するのは、元毎日新聞で政治部副部長などを務めたジャーナリストの尾中 香尚里さん。尾中さんはメディアの現場に身を置いていた人間としてとして自らの非力さを詫びつつ、石原氏の訃報を「時代を逆回転させる節目」にすることの重要性を訴えています。

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プロフィール:尾中 香尚里(おなか・かおり)
ジャーナリスト。1965年、福岡県生まれ。1988年毎日新聞に入社し、政治部で主に野党や国会を中心に取材。政治部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを経て、2019年9月に退社。新著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」(集英社新書)、共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。

石原氏の訃報を「暴言が止められない社会」を終える節目に

石原慎太郎元東京都知事が1日、亡くなった。毀誉褒貶の大きい政治家だったが、日本の政治にとって良くも悪くも「大きな存在」だったことは確かなのだろう。

政治に限らずどんなジャンルでも、そのジャンルにおいて大きな存在感を持つ人物が、引退なり死去なりで失われた場合、それが時代の節目になることがある。そして、筆者はこの訃報が実際に、時代の歯車を一つ回すことを強く望んでいる。

石原氏が生前繰り返してきた差別的発言や暴言を許容し、むしろ面白がり、政界全体にこうした空気をまん延させてしまった、そんな時代に、私たちはもうそろそろ区切りをつけるべきだ。

想像していたとはいえ、石原氏の死去を知らせるマスコミの報道には、やはり首をかしげざるを得なかった。「歯に衣着せぬ発言」「石原節」。こういう見出しや表現が、全国紙の紙面に普通に踊っている。報道によれば、安倍晋三元首相は「時に物議を醸す発言をしたが、批判を乗り越える強さがあった」と発言。石原氏の後任の都知事を務めた猪瀬直樹氏の言葉として「失言もあるけれど、それは自分の言葉で語るからこそ」と持ち上げ、返す刀で「官僚的で無難な、言葉に魅力がない今の政治家」とも述べて「今の政治家」をこき下ろしてみせた。

確かに、失言は誰にでもある。でも、公正な批判を受け、適正な謝罪がなされることで、適正な言論環境が維持されるのだと思う。過去にも失言した政治家はいたが、それぞれの失言のレベルに応じて、それなりの扱いを受けてきた。

その発言は許されるか否か。それを決めるのは社会の側だった。石原氏自身、環境庁長官だった1977年、水俣病患者らを侮辱する発言を行い、後に謝罪に追い込まれている。あってはならない発言をすれば石原氏にさえも謝罪させるだけの力が、当時の日本社会にはあったということだ。

そして私たちの社会は、いつしかそのような「自浄能力」を失っていた。

石原氏のその後の問題発言、例えば「三国人」発言も「ババア」発言も、いずれも「失言」ではない。それが差別であり、社会的に受け入れられない内容であることを百も承知の上で、言ってみれば社会を挑発したのである。そして私たちの社会は、その発言に眉をひそめる向きはあっても、押しとどめることはできなかった。それどころか、マスメディアはこうした発言を「石原節」などと呼んで、個人のキャラクターの問題に帰結していった。一部では「もてはやした」といっても過言ではなかった。

やがて発言は「問題」として認識されなくなった。「石原さんだから仕方がない」という空気が急速にまん延していった。

「○○節」はやがて、石原氏以外の政治家にも広がっていった。一番わかりやすい例が麻生太郎自民党副総裁だ。第2次安倍内閣で副総理兼財務相だった2013年、麻生氏は憲法改正をめぐるシンポジウムで「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。あの手口に学んだらどうかね」などと発言した。

確かに憲法改正の是非については、さまざまな意見があるだろう。だが、その改正手続きをナチスの手口に「学べ」というのは、ファシズムの手口を自国の政治に取り入れることへの憧憬を表現したものであり、民主主義国家たる日本政府の重要閣僚の発言としてあってはならない発言だ。

しかし、麻生氏は発言を撤回しただけで(謝罪らしい謝罪もなかった)、特に政治的なダメージを受けることもなかった。何しろ安倍政権どころか、後任の菅義偉政権まで、重要閣僚の座にとどまり続けたのだ。麻生氏の「暴言」はこれ以外にも多々あったが、マスメディアはこれらを「麻生節」で片付け、新聞の囲み記事で楽しそうに扱うことが常だった。

麻生氏を重要閣僚に起用し続けた安倍晋三元首相は、やや異なるタイプの「暴言」を吐き続けた。国会で与野党議員からの質問に真摯に答弁するのは、首相という「行政府の長」として当然の責務をまともに果たすことができず、少し厳しい質問を受けると逆ギレ。しまいには答弁していない時にまで、自席に座ったまま野党議員にヤジを飛ばしたりもした。

ヤジはさすがにとがめられることもあったが、国会での答弁はむしろ、マスメディアには「好意的に」取り上げられた。「野党の質問をかわした」「野党詰め切れず」。何度そんな見出しや記事を見たことか。質問に真摯に向き合わない安倍氏の方が論戦に「勝って」、答弁を取れない野党が「だらしない」というわけだ。確かに、こんな首相でもしっかり追い詰めた質疑もあるにはあったので、野党が全体としてもっと質問力を上げるべきなのも確かだろうが、政府の長としての責任をまともに問わないまま一方的に「だらしない」呼ばわりされれば、それは不公平というものだろう。

そして安倍氏はとうとう、街頭でも同じ挙に出た。2017年、東京都議選の投開票前日に秋葉原で街頭演説に立った安倍氏が、そこに集まっていた自らに批判的な聴衆を指さして「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。

国会での「政敵」に対する暴言を、社会が何となく許容してしまった結果、安倍氏の矛先は国会を飛び出し、一般国民に向かってしまった。最高権力者が国民を指さして、自らの敵とみなしたのである。

岸田政権になって、安倍氏や麻生氏が国会から姿を消した結果、国会はずいぶん落ち着いたものにはなった。そして現在、石原氏以降の流れを引き継いでいるのが、日本維新の会だ。考えてみれば石原氏は生前、橋下氏とともに同党の共同代表を務めたこともあったのだから、当然かもしれない。

国会の場で他党の議員を誹謗中傷する。国政選挙の後任候補予定者が差別発言などを繰り返す。大阪府知事だった橋下氏が、府庁を訪ねた高校生を「恫喝」したこともあった。石原氏と麻生氏と安倍氏が一つになったような暴言の塊が、維新の関係者から幾度となく聞かれている。

何より筆者が危惧するのは、維新のこうした発言へのマスメディアなどの許容度が、石原氏の時代よりもはるかに上がっていると思えることだ。橋下氏が維新の創設者であることを誰もが知っているにもかかわらず、さも「中立」のコメンテーターであることを装い、いくつものテレビ番組に出演し、好き勝手なことをしゃべり続ける。メディアがそういう場を積極的に与え続ける。

昨秋の衆院選における維新の議席増を、必要以上に「躍進」とあおり立てる。実際のところ、前々回(2017年)の衆院選で、小池百合子東京都知事率いる「希望の党」が存在しており、支持層が重なる同党に一時的に奪われていた議席が戻ってきただけという事情から、意図的に目をつぶる。石原氏の時代にはまだあった「石原さんだから仕方がない」という、ある種諦めや苦笑といった空気感を超えて、今やメディアの方が維新を持ち上げ、あおり立て、先導しているようにさえ見える。

筆者は本来、こんなことを偉そうに言える立場にはない。平成の時代を通じて、全国紙の政治部で長く仕事をしていた筆者は、政治をめぐる言論環境をこんな状態にしてしまったことについて、間違いなく責任を負わなければならない立場にある。自らの無力をわびなければならない。

だが、とにかく私たちはもう、どこかで立ち止まらなければならない。「逆回転」を始めなければならない。

繰り返す。あるジャンルにおいて大きな存在感を持つ人物が、引退なり死去なりで失われた場合、それが時代の節目になることがある。思えば、石原氏の弟・裕次郎さんが1987(昭和62)年に亡くなったことも、後に「昭和の終わりが始まった」などと振り返られている。

それぞれの悼む気持ちまでは否定しない。だが、悼む局面が過ぎたら、次になすべきことは「あってはならない発言をきちんとただすことのできなかった時代」に別れを告げることだ。

今回の訃報を、そんな時代の節目ととらえたい。

image by: 東京都公式HP

尾中香尚里

プロフィール:尾中 香尚里(おなか・かおり)
ジャーナリスト。1965年、福岡県生まれ。1988年毎日新聞に入社し、政治部で主に野党や国会を中心に取材。政治部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを経て、2019年9月に退社。新著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」(集英社新書)、共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。

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