英語が苦手と言われる日本人ですが、なぜそうなってしまったのでしょうか。カナダで25年間も日本語を教えていた著者が、私達がなんとなく使っている日本語の素晴らしさを気づかせてくれた一冊を、メルマガ『1分間書評!『一日一冊:人生の智恵』』の中で紹介しています。
【一日一冊】日本語が世界を平和にするこれだけの理由
金谷武洋 著/飛鳥新社
カナダで25年間、日本語を教えてきた著者が教える日本語の特徴です。著者が最初に気づいたのは、日本語には主語がないことが多いということです。一方で、英語は常に人(主語)が中心となっています。
例えば、朝の挨拶である「おはよう」とは「お早う」ですから、朝、早いことを挨拶している二人で共感しているのです。
英語での「Good morning」は、「I wish you good morning」の訳ですから話し手の「私」が、聞き手の「あなた」にとって「この朝」が良いものであるように祈っているのです。
確かに日本人は自己主張するよりも、周りと協調し、全体の中に自分を合わせていく人が多いのでしょう。
一方で英語や中国語では自己主張が強く、声が大きいし態度も大きく、日本人には上から目線に見えるのです。
著者の結論は日本語は共感の言葉であり、英語は自己主張の言葉であるということです。
英語の文には人間が出てくるのに、日本語の方には出てきません(p23)
私が印象的だったのは、英語では主語に注目するのに対し、日本語では状況の中に共存するということです。
例えば、小説『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」という文を考えてみましょう。
日本語の文だと、話者の視点は列車も主人公も風景もすべてが溶け合って見ているイメージです。
これが英訳されたものになると、主語がThe trainとなるのでどうしても電車の外に視点があるのです。
また、「太郎が花子が好きである」という文を考えれば、日本語なら愛の中に二人がいるという印象ですが、英語では太郎が花子にアプローチしている印象となるのです。
オレがオレがの英語と一体となって共感する日本語の差は大きいのです。
日本語の文にほとんど「わたし」が表れない…自分の見えている状況の中に「わたし」はいます。すると、「わたし」は話し手に見えなくなります(p121)
確かに英語は個人に注目するのに対し、日本語は個人が消滅し、状況に注目していることがわかりました。
このことを大きく象徴しているものとして著者が指摘するのは、広島平和公園の慰霊碑に書かれてある「安らかに眠ってくださ 過ちは繰り返しませぬから」という碑銘です。
日本語だから主語がないのです。原爆が投下されたという状況の中にすべての人が置かれているのであり、主語はすべての人なのです。
不思議なことにカナダ人が日本語で考え、話すことで、自分の心の働き方がはっきりと変わるのだという。この本を読んで、日本に生まれてよかったなと思いました。
金谷さん、良い本をありがとうございました。
【私の評価】★★★★☆(84点)
<私の評価:人生変える度>
★★★★★(ひざまずいて読むべし)
★★★★☆(素晴らしい本です)
★★★☆☆(読むべき一冊です)
★★☆☆☆(余裕があればぜひ)
★☆☆☆☆(人によっては)
☆☆☆☆☆(こういう本は掲載しません)
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