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日本が“貧困”から脱出するヒントは独自のファッション「きもの」にある訳

賃金や1人当たりGDPなどの指標で、「貧国化」が指摘される現在の日本。その原因と打開策のヒントはファッション業界の歩みを振り返ることで見えてくるものがあるようです。今回のメルマガ『j-fashion journal』では、ファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、日本の歴史の中でファッションが盛り上がった時代を振り返り、「国内生産国内消費」を進める意義を再確認。そのためには政策の後押しが不可欠で、もし日本人の半数が「きもの」で生活するようになれば、経済的にも精神的にも大きなメリットがあると伝えています。

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日本経済と日本のファッション

1.庶民が豊かになるとファッションは盛り上がる

ファッションは「風俗」「流行」と訳されることもあります。どちらもエリートにとっては必要ないものかもしれません。常にスーツを着用し真面目な生活をするだけならファッションは必要ないのです。

西欧においてファッションは貴族や富裕層のものでした。経済的に余裕があるから、社交界やパーティーは存在し、その中で美を競い合いました。仕立て職人は技術を磨き、そのニーズに応えたのです。

日本では江戸中期以降になると、庶民が楽しむ歌舞伎が流行し、歌舞伎役者がファションリーダーとなりました。人気のある役者がきた着物の色や柄が流行し、それを描いた浮世絵がブロマイドのように売れました。そして、武家の娘や大店の商人の娘が、最新の風俗や流行を楽しんでいたのです。

現在、吉原は売春のイメージが強く暗いイメージがありますが、当時は江戸文化の中心でした。夜毎、役者や浄瑠璃作者、浮世絵の絵師や版元、大店の商人や大名、町火消しや相撲取りなど、ありとあらゆる階層の人が集まりました。

桜の季節になると、開花の順に様々な桜の木が植え替えられ、1カ月ほどは満開の桜を楽しめたようです。吉原芸者は最も格式が高く、芸のレベルも高かったといいます。最高のテーマパークで、最高のエンターテインメントが演じられ、最高の文化人が集うサロンだったのです。

吉原の中では身分制度は不問で、武士も町人も平等でした。金さえ払えば、誰でも認められたという意味では、資本主義の最先端だったのかもしれません。

そんな自由な江戸文化は、明治になると古臭く遅れたものとして否定されました。西欧文化を導入し、西欧の列強に倣おうとしたからです。明治は下級武士が作った時代であり、富国強兵を掲げ、真面目ではあるけど遊びのない堅苦しい時代でした。

ファッションが盛り上がる時代は、庶民が豊かな時代です。大正時代は、第一次世界大戦後の好景気で日本が経済成長した時代です。電気が普及し、ラジオ放送が始まり、鉄道やバスが発達し、都会にはデパートができました。商人が急激に金持ちになる「成金」が出現し、文化住宅が生まれ、職業婦人、サラリーマンが現れました。当然、大衆文化が発達し、大正ロマンが生まれ、洋装をしたモボ、モガが出現しました。

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2.高度経済成長とDCブランド

次に大衆文化が盛り上がったのが、1954年から1973年まで続いた高度経済成長期です。1950年の朝鮮戦争特需により、1953年後半には戦前の最高水準を超えました。1956年には経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言しました。1960年、池田勇人内閣は、10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表しました。

1964年には東京オリンピックが開催され、世界から多くの人々が来日しました。1966年6月30日にザ・ビートルズ来日、1967年10月18日にミニスカートの女王と言われた英国のファッションモデル、ツイッギー(当時18歳)が来日しました。ツイッギーを日本に招待したのは、東レの遠入昇さんで、一説によると個人で経費負担したそうです。

ビートルズもツイッギーも当時の最新ファッションのシンボルでした。その影響もあり、日本でもグループサウンズブーム、ミニスカートブームが起きました。

1970年は大阪万博が開催された年ですが、同時に日米繊維交渉が始まった年でした。1968年にニクソン大統領が繊維規制を公約に当選しました。1970年から71年まで日米繊維交渉が続き、最終的に米国政府の要求通り、日本は対米繊維輸出を自主規制することとなりました。

日本の繊維産業は輸出から内需への転換を余儀なくされ、オーダーメイドから既製服へと転換することになります。米国の既製服産業のノウハウを日本に紹介し、大量生産のアパレル産業が誕生したのです。

1970年は、高田賢三がパリで最初のコレクションを発表し、作品は『ELLE』の表紙を飾りました。その後、高田賢三の成功に刺激された、同年代の日本人デザイナーも次々とデビューし、74年には東京コレクションの前身であるTD6(松田光弘、菊地武夫、金子功、コシノジュンコ、花井幸子、山本寛斎)が最初のコレクションを開催しました。ここから、日本のデザイナーズブランドブームが始まりました。

80年代になると、全国的な不動産開発ブームが始まり、駅ビル、ファッションビル、地下街や商店街の整備が行われ、百貨店が次々とリニューアルしました。そこにDCブランド(デザイナーズ&キャラクター)がテナントとして入居し、急激に売上を伸ばしました。

日本のバブル景気のピーク1979年に出版されたのが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』でした。まさに、日本経済の急成長と共に、日本オリジナルのファッションも急成長したのです。この勢いは、バブル崩壊後の90年代半ばまで続きました。

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3.独自ファッションを失った貧しき時代

バブル崩壊後、中国製品の輸入が増え、「激安ブーム」が起きました。そこから25年間、アパレル業界のみならず小売流通業界は、とにかく「安く作って安く売る」ことだけを考えてきました。海外生産に依存したので、生産性向上もトータル流通コストの削減というテーマも忘れ去られました。

とにかく、原価を下げるために素材の価格を落とし、工賃を叩くことだけでやってきました。いつしか、「安くて良い商品」から「安いだけのそれなりの商品」に変わってしまいました。新しいビジネスモデル、新しい売り方、DX等にも取り組まず、というよりイノベーションに関心がなく、ルーティンワークだけを繰り返してきたんだと思います。

国内生産国内消費の時代は、国内でお金が回っていました。製造業の利益、流通小売業の利益も最終的には市場に還元されました。しかし、全製品を日本に持ち帰ることが前提の中国生産の時代は、製造業の利益がそっくり中国に流れます。その分、日本は貧しくなり、可処分所得も減少しました。

日本の大企業も海外投資家の支配が強まり、利益は海外に流出していきました。日本が海外で稼いだお金も米国債等に流れ、世界一の対外資産保有国でもその資産は使えず、米国は借金を使いまくっています。

日本人が行っている投資も、国内のベンチャー企業に流れるのではなく、どこかの国や企業の債権に姿を変えて、世界を回っています。そのうち、市場が暴落し、インフレが加速すれば、資産価値もなくなります。

外資のファストファッションもラグジュアリーブランドも、利益は海外に流れていきます。表参道も銀座も昔は日本企業の店が並んでいましたが、現在はほぼ外国資本の店に変わりました。そこにインバウンドの観光客が来て、買い物をしても日本に落ちるお金はほんの一部です。

更に、商業地の不動産も外国人が買いあさっています。このままいくと、日本の中で行われているビジネスに日本人は全く関与できなくなるでしょう。日本人は低い賃金で働くだけの存在になります。

グローバルな商品は、どの国でも生産できるし、どの国の企業でも扱え、どの国でも売れます。多くの経営者は、それを目指すことが良いことだと信じてきました。そして、皆で貧しくなる方向に進んでいきました。

日本デザイナーが日本国内メーカーで作る商品は、日本企業が扱います。買い物とはある意味で投資です。日本に投資すれば、日本人にお金が回ってきます。

ファッションは人格を演出するツールであり、周囲に与えるイメージをコントロールできます。グローバルブランドを身につけることは、グローバルな階層社会に組み込まれることです。我々が日本人としてのアイデンティティを持つには、独自の文化、独自のファッションが必要です。ファッションは無駄なものではなく、グローバル社会の中で独立を勝ち取るための重要なツールなのです。

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4.ファッションによる日本経済復興を

景気は気のものだと言われます。例えば、国民が日本人であることに自信を持つことは大切です。

縄文時代の高い文明を考えれば、世界の古代文明と言われるものと比較しても圧倒的な古い歴史を持っていることが分かります。縄文時代は文字がなかったと言われますが、実は日本各地でペトログラフと呼ばれる岩に刻まれた原初文字が発見されています。少なくとも6,500年前にはこれらの文字を使う人が日本列島に住んでいたことになります。

最近の研究では、縄文時代には既に稲作が行われ、大規模な集落が形成されていたことが明らかになってきました。

日本は歴史だけでなく、その技術を継承していく伝統があります。中国や朝鮮半島では既に絶えてしまった古代からの技術も日本国内では大切に伝えられています。木造建築技術は数千年間の伝統と技術の蓄積があり、古代の建築であっても建て替えや修理が可能です。

伝統工芸や伝統的な技術だけでなく、そこから最先端の技術が生れています。発酵や醸造の技術からは医薬品やバイオテクノロジーが発達し、化学技術からは炭素繊維などのナノテクノロジーが、日本刀の鍛造からは様々な刃物や金属加工技術が発達しています。

その他にも、鉄鋼、造船、工作機械、鉄道、自動車、飛行機、半導体等も世界のトップレベルを維持しています。

文化、芸術の分野をみても、伝統的な能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎から、日本の祭に見られる祇園祭の山車、ねぶた、阿波踊りなど、現在でも研鑽と進化を続けています。

日本の民族衣装である「きもの」は世界的に見てもレベルの高い手工芸の染織や刺繍技術の結晶であり、さらに洋服とは全く異なる平面の布を折り畳んだような独自の構造を持っています。

世界の中でこれほどユニークで独特な文化を持ち、しかも古代の技術から最先端の技術までを駆使し、何でも作れる国はあるでしょうか。日本の製造業が低迷しているのは、コストの問題だけです。何千年もの技術の蓄積がコストの問題で、姿を消すというのはどうにも納得できません。

コストは金融や為替、貿易や関税などの法律や運用でいくらでもでコントロールできるものです。そこを利用され、一部の日本人を利益誘導し、日本が貧しくなる政策を日本人自身が行っています。

もし、日本人の半数でも「きもの」を着て、生活したらどうなるでしょうか。欧米人は日本は異文化の国だと明確に認識することでしょう。中国人や韓国人も日本を独自の存在として認識を強めるのではないでしょうか。そして、現在でも民族衣裳を守っている国々は日本に親近感を持つでしょう。

日本人自身も自らのアイデンティティを再確認できるのではないでしょうか。そうなれば気が変わります。日本経済も成長に転じるのではないでしょうか。

編集後記「締めの都々逸」

「ファッションなんて 関係ないと 思う時代は 貧困苦」

「消費より投資」という時代が続いています。そういう人にとって、ファッションなんて馬鹿馬鹿しいものでしょう。でも、経済の状況とファンションを比較すると、やはり好景気の時にはファッションも盛り上がります。景気の気は感情的なものです。ファッションの動きと近いと思います。

別に既存のアパレル企業が淘汰されたとしても、アパレル製品は輸入されるでしょうし、ファッションもなくなりません。でも、独自のファッションが生れないような国になったら、本当にヤバイと思います。ファッションは消費者心理と直結しています。

近い将来、投資市場が暴落し、投資ブームが終了。「今度は消費ブームが来る」なんて夢を見ていますが、さて、どうなるでしょうね。(坂口昌章)

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