1994年から5年間、故鳩山邦夫衆院議員の秘書として政治の世界に関わって以来、政界の表裏をウォッチし続けてきたジャーナリストの上杉隆さん。そんな上杉さんが、1年半の間要職を務めていた「NHKから国民を守る党(現「政治家女子48党」)」を離れてから、早2年以上が経ちました。なぜ彼は同党を後にすることとなったのでしょうか。その顛末の「序章」を今回、メルマガ『上杉隆の「ニッポンの問題点」』で上杉さん自身が綴っています。
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政治家の正義とは~鳩山邦夫氏と立花孝志氏の違い
「いいか上杉、政治は勝ち負けではない。キミはなぁ、正義感を出しすぎる傾向がある。でもな、みんなが正義の中に生きているわけではない。追い込みすぎるな。逃げ道を作って許してやることも必要だぞ」
いま、私は、故・鳩山邦夫元文部大臣から教えられたことを反芻している。
幼稚園のときから自民党の創設者である祖父・鳩山一郎元首相の姿を追い、大蔵事務次官で外務大臣を歴任した秀才・鳩山威一郎を父を持ち、大学卒業後はすぐに田中角栄元首相の秘書となった鳩山邦夫代議士は、自他ともに認めるエリート保守政治家だった。
しかし、鳩山さんはそんな自らのエリート風情を嫌っていた。あえてともいうべきずぼらな格好で、スーパーで10円引きの品物を見つけると「ほら上杉、こっちの方が安いぞ」と悦び、フランス料理店での会合を早々に抜けたらと思ったら赤ちょうちんの軒下に顔を出す。文部官僚には厳しいが、小学生には溶けるほど優しい。常に大衆の中に飛び込んでいき、弱き者の言葉に耳を傾け続けた。
「負け組という言葉があるが、それはたまたまついていないだけということなんだ。いつかは自分にその番がやってくるかもしれない。おれとかキミとかは、いまはそれは恵まれている。だが、つねにそういう人生だけではないと肝に銘じなくてはならないぞ」
秘書時代の自分は、わかっているようでわかっていなかった。鳩山さんの言っている意味を理解できているようで、理解できていなかった。しかし、あれから25年。当時の鳩山さんの年齢になって、ようやく見えてきた…。
相対的な強者は、その力の使用にあたって、丁寧すぎるほど丁寧に行わなくてはならないということなのだろう。
3月末(編集部注:2021年)でNHK党を辞めた。2019年夏、久しぶりに永田町に戻った私にとって、激動の1年半だった。改革マインドに溢れた素晴らしいNHK党の仲間たちと過ごした1年半は、私の人生の誇らしい一ページであった。
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では、なぜ私は辞めたのか。その理由は、党首である立花孝志さんの変化に、私自身の良心がついていけなくなった、という一言に尽きる。
価値観の違いを認めるのがNHK党の良いところだった。しかし、いまやかつて党内にあった多様性の自由は失われていった。禅問答のようだが「価値観の相違を認める価値観を共有する」という愉しい雰囲気はすっかり消えてしまったのだ。
率直に言って、最近の立花さんは、独善に陥っているのではないかと思う。他者を執拗までに攻撃することによって、自らの存在を辛うじて保っているのではないかと心配している。もちろん立花さんには及ばないが、私自身も小さいとはいえいくつかの組織のトップを経験してきた。その経験からしても、リーダーが孤独で苦しいことは百も承知している。
ところが、立花さんの攻撃の矛先が、NHKなどの組織や公権力、あるいは公人などではなく、一般人にまで及びはじめて、私は強烈な居心地の悪さを感じるようになってきた。陰口は嫌いである。それに私は立花さんの率直さが好きである。いつものように、自らの意見を率直に本人伝えた。
残念ながら、立花さんに私の危惧は伝わらなかった。代わりに、党務とは無関係の事柄での人格攻撃が私には待っていた。人間は誰しもが弱いのだ。痛いところを突かれると大抵、攻撃的になる。私も他人のことを言えた義理ではないが、立花さんの振る舞いは顕著にそれだった。
ここに、役員会に提出した緊急動議の内容を明らかにする。NHK党のさらなる発展を期待するものとしては、いったん出直した方がいいと考えて、提議した。素晴らしい仲間たちへの、党改革のための、私からの最後のメッセージと受け取ってほしい、という気持ちで認めたものだ。
公表するつもりはなかったが、当事者と弁護士の許可も取れたので、ここに明らかにする。
※ 続く
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image by: Twitter(@nhkparty)