近年、「ライフハック」という言葉は、かつてほどの新鮮さや熱量を持たなくなったと指摘されることが多いですが、書店やウェブではライフハックをテーマにした書籍や記事がいまだに目につきます。文筆家の倉下忠憲さんは自身のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で、ライフハックという概念の変遷を手がかりに、人間が古くから抱えてきた「生きることの工夫」の本質について考えています。
ライフハックは死なない
書店を散策していたら、以下の本を見かけました。
『ハーバード、スタンフォード、オックスフォード… 科学的に証明された すごい習慣大百科 人生が変わるテクニック112個集めました』
SEOのテクニックを煮詰めたようなタイトルですが、「習慣」という言葉が気になったのでぱらぱらと覗いてみたら、数ページで気がつきました。
「これ、ライフハックだ」と。
いくつかピックアップしてみましょう。
・習慣化に意志力はいらない
・仕事の効率化のポイントは「ルーティン化(自動化)」にある
・「ツァイガルニク効果」を使う きりの悪いところでやめるとリスタートしやすい
・スマホをテーブルの上に置かない スマホがそこにあるだけで親近感が低下する
ライフハック系のブログで2000回くらいは見た話題です。それを「科学的」というフィルムで糖衣した内容なのでしょう。
それ自体に思うところは特にありません。
「ライフハック」という言葉がマーケティング的希求力を失ったとしても、そこにあった内容の有益さが減少することはないわけで──プラシーボ効果は下がるでしょうが、それを代替するのが”科学的に証明された”というコピーです──、それを今の世代にも伝えていくことは大切な仕事です。
「ライフハック」という言葉が死んだとしても、そこに宿っていた精神や行われていた営みが死ぬことはない。
そもそも、「ライフハック」によってはじめてこうした行為が人類史に生まれたわけではありません。たしかにデジタルガジェットやツールの使い方を絡めた”生きることの工夫”は、ライフハックブームと共に盛んになりましたが、もっと包括的な工夫は「ライフハック」という言葉以前からずっと行われていたわけです。
その意味で、「ライフハック」という言葉も別の言葉から転生し、その役割を終えたら新たな言葉へと移り変わっていく流れにあるのでしょう。
最初に紹介した本はかなり売れているようなので、「ライフハック」という言葉の最終段階を、私たちは目撃しているのかもしれません。
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■何を欲しているのか
ところで、ライフハックに宿っている”生きることの工夫”とは何なのでしょうか。そうした工夫を人類が綿々と営んできたとして、その精神性はどのように描写できるでしょうか。
先ほど挙げた本は、「仕事の効率化」「勉強」「ダイエット・健康」「コミュニケーション」「メンタル」といった章で構成されています。こうしたものをうまくやりたいというのがその精神性でしょう。
そもそも工夫とは何かを「うまくやる」ための方策です。
たとえば、「仕事をうまくやる」、ないしは「仕事をさぼることをうまくやる」。これらは、目指す成果は異なっていても、その成果への道行きを期待する方向へ寄せようとしている点では共通しています。
古代ギリシャから続くストア哲学も、日々起こる出来事に心をかき乱されないようにするための考え方を提示していて、包括的に言えば「よく生きる」ための工夫、具体的に言えば「理性をうまくつかう」ための工夫になっています。
私たちは古代からずっと「うまくやりたい」と願って生きているわけです。さまざまなテクノロジーの開発もそうした欲望に駆動された営みの結果でしょう。
仏教的な考えでは、そのように願う=欲望することが生きることの妨げになるのであり、それを手放すことが勧められるわけですが、そのようにして好ましい生を得ようとしている点は同じでしょう(そこでは「うまく」の定義が変化しているわけです)。
私たちはうまくやりたい。
ただ生きるのではなく「うまく」生きたい。
おそらくそれは、「好ましい成果を手にしたい」以上の願いです。言い換えれば、好ましい成果が入手できればそれだけでOKとはなりません。
たとえば、「仕事をうまくやりたい」と願っている人がいるとして、ある日突然悪魔が目の前に現れて「世界、変えておいたから」と言われたらどうでしょうか。その人がやっている仕事はまったく変わらないが、周囲の人間の認識が悪魔によって書き換えられていて、その人が仕事をうまくしているように感じられている。
こうしたとき、その人が持っていた「仕事をうまくやりたい」という願いは充足されたと言えるでしょうか。おそらく、「別に悪くはないけど、ちょっと違うんだよな」と思うのではないでしょうか。仮にその認識の書き換えが、社内だけでなく世界中にわたっていたとしてもきっと同様でしょう。
では、何が足りないのか。
それは「自分が関与した」という感覚でしょう。「うまくやりたい」という願いがあり、それに応じて行動した結果として、変化が生まれた。そのような関与の感覚は、生きることに対するコントロール感をもたらしてくれます。
慌てて補足しますが、ここでいう「コントロール感」とは、人生を自分の思い通りにできていることを意味していません。そうではなく、部分的であれ自分の「意思」(ひとまずはこう呼びましょう)が、人生に影響をもたらしたのだ、という感覚のことです。
ただ生きるのではなく「うまく」生きたい、という願いの中には、成果を手にすることだけでなく、そこに至るまでのプロセスがもたらす影響も含まれているはずです。
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■さいごに
人が「うまく」生きたいと望む限り、「ライフハック」は死にません。名前が変わり、テクニックが代わり、具体的に何を欲するのかは変わっても、生という営みにおいて、何らかの関与を行い、それを行わなければ得られなかった「成果」を手にしようとする姿勢は生き残り続けるでしょう。
もしかしたら、そうしたさまざまな工夫を一つの視座で体系的にまとめることもできるのかもしれません。なにせ人の生に関わってくる要素などそこまでバリエーションはないものです。「ライフハック」の話題を今でも見かけること、そして古代ギリシャの哲学があいかわらず効果を持っていることなどは、その証左かもしれません。
いや、そうではないのでしょう。たぶん、そのようにまとめてみたい、というのが私が欲する「うまく」生きたいの一部を成しているのだと思います。情報がバラバラに散らばっていて、同じような話題がぐるぐると循環している様子が堪え難い。それをなんとか変えてみたい。
そのような欲望とどう付き合うのか──可能であれば生計に役立たせるようにできないのか──ということもまた、”生きることの工夫”に含まれているのだと、そんな風に思います。
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