発達障がいの人たちの生きづらさの原因に周囲が配慮することで、「障がい」が「障がい」ではなくなるという考え方が徐々に浸透してきています。それでも、学校や職場においては試行錯誤を始めたばかりのところも多く、配慮が足りないと言わざるを得ない事例もあるようです。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、生きづらさを抱えた人たちの支援に取り組む著者の引地達也さんが、朝日新聞に掲載された一人の女生徒の死に繋がったケースを紹介。学校側に経営上の事情があったとしても、一方的な「通告」は凶器にもなることを知り、対話の必要があると伝えています。
記事化された障がい者と取り巻く現実に耳を澄まして
最近、一般紙にも発達障がいや障がい者の就労支援、障がい者への学びの場の提供などの記事の掲載が多くなった。数年前には関係者から「掲載された」との連絡を受けて情報をシェアしていたところから、今や把握しきれないほどの記事が新聞紙上に登場することになった。
今までは埋もれていた情報が表に出ることで、障がいを取り巻く問題を社会課題として社会全体で取り組まなければいけない機運にも結び付きそうだ。
最近、朝日新聞の連載記事で取り上げられたのは、発達障がい当事者にも「対応できる」とした中高一貫校が経営方針の変更で、女子生徒が適切な配慮を受けられず、生徒の居場所がなくなり、摂食障害を発症し、亡くなったケースだった。この問題は、今も存在するであろう、教育や支援の現場でおこる表に出ていない悲しい現実のほんの一部として捉えたいと思う。
この記事は朝日新聞の連載「発達『障害』でなくなる日」全4回の終了後、読者からの反響を掲載した「反響編」である。亡くなった女生徒の父親によると、自閉スペクトラム症(ASD)と診断された女生徒が通っていた私立の中高一貫校は入学前の学校説明会で「偏差値重視ではなく、少人数制で1人1人の個性を大事に、6年間お子様を大事にお預かりします」と説明したという。
しかし中学3年の時に学校は「現在の教育方針では経営が成り立たない」として、発達に特性のある生徒の居場所が無くなり、この女生徒も水も飲めなくなり入院し、中学卒業後の15歳で、自宅で倒れ亡くなった。
学校の方針に振り回されてしまい、家庭とともに安全であるべき義務教育の現場から、居場所がなくなる失望感を想像すると言葉が続かない。食べ物を受け付けなくなった体と心、どのように癒すことができるのだろうか。
学校はこの個別の問題に真摯に対応するべきであるのは当然であるが、この学校だけの問題ではない。教育方針を変えなければいけなかった社会的背景にある少子化による学校経営の危機感は、このような生徒への不利益、障がいのある生徒の居場所を喪失させる事実を生んでいる。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
同時にどんな特性があってもインクルーシブに学び、働こうとしている社会にあって、合理的配慮はその違いの接点を埋めようとする取組であり、企業も学校も、方針の中に組み入れられるべきテーマである。その配慮が難しい場合には、適切な場所に誘うのも教育機関の責務であり、合理的配慮の一環。さらにこれは企業や教育だけではなく、障がい者を支援する福祉サービスも注意するべき内容だろう。
例えば働く上での「障がい」を適切に対応することで企業での就労を支援する就労移行支援事業所でも起こる可能性は高い。支援の必要な人が幾多の福祉サービスの中から、自分の合った事業所を選ぶ時に、そこには必ず希望が含まれている。
当事者の決定を最大限に尊重するのが、障害者総合支援法の基本であり、現在の福祉サービス提供の前提。その希望を具体的に事業所と関係者で推し進めていく中で、ちょっとしたずれが生じた場合、経営方針を理由とした当初の説明と異なる場合は、適切な伝達が必要だ。この作業を怠り、当事者が「こんなはずではなかった」のケースは少なくないと思われる。
先ほどの学校のケースでは、自らが声を上げられない中学生の事案であればなおさらに、一方的な通告が凶器にもなることを当局は知るべきであろう。支援する側も常に、声にならない声に耳を澄ませながら対話をし、支援をすることがやはり基本であると思い知らされる。
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