子供の生い立ちは人ぞれぞれ。それを学校の授業で晒しあげてしまうようでは、本来のねらいとはまったくかけ離れてしまいます。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、そういった「よかれと思って」という気持ちから出てくる学校側の「善魔」とも言うべき行動について問題視しています。
悪魔より性質の悪い「善魔」
昨日10月28日、中日新聞の次の見出し記事が気になった。
参考:里子や養子が「生い立ちの授業」で悩まないように 名古屋市が学校に配慮求める文書(中日新聞)
購読している訳ではないので本文は読めていないが、恐らく『不親切教師のススメ』第7章「子どもの家庭を覗かない」で書いたことと類似の内容ではないかと推察される。あらゆる家庭の事情に配慮し、傷つく子どもがいる可能性のある活動は実施を考慮すべし、ということである。
要は、あらゆる一斉学習で最も気を付けるべきは、個の事情への配慮だということである。本来、生い立ちを調べることで、自己肯定感やあらゆる感謝の気持ちを育む学習である。このねらい自体はいいのだが、場合によってはこの方法が不適切になり得るのが難しいところである。
教育する側は、当たり前だがあらゆる教育活動を「善行」を前提として熱心に行っている。しかし、その「善行」こそが強い苦しみを生むことが多々ある。相手のしていることが明らかな「悪行」であれば、悪いことなので抵抗も糾弾もできる。しかし「善行」に対しては、抵抗手段を用いることができない。それが「善意」によるものだからである。(「あなたのため」が最凶の呪いの言葉なのも、これと同様である。)
『不親切教師のススメ』でも紹介したが、これを「悪魔」をもじっての「善魔」という。ちなみに「善魔」とは(知り得る限り恐らくだが)作家の遠藤周作氏の造語である。
(『生き上手 死に上手』 遠藤周作著 文春文庫 p.21 )
「よかれと思って」が善魔の行動の特徴である。相手の事情も知らずに、要らぬことをしてしまう。やられた方も、相手が善意とわかっているからこそ、やるせない気持ちになる。人間関係のこじれる、最も難しい部分でもある。(ドラマや小説でもよく描写される光景である。)
学校教育は、この「善魔」に陥っていないか、常に点検する必要がある。
ちなみに他人から「偽善」と批判されることとは全く違う。「偽善」は善行を働いている人を周りが「嘘だ」と揶揄するものであり、基本的に批判される人以外、誰も傷ついていない。人道支援等に莫大な資金を投じて「売名の偽善ですが何か?」と堂々と言った著名人もいるが、偽善と言われようがそれは実際的に人が助かる行為である。「正しいことをする時には清い心をもって行なわければならない」という前提、思い込みが「偽善」という批判を生む。貧困等で苦しんでいる人が実際に助かるのは、その見えない心根以上に、具体的な行為そのものである。
一方の善魔は、気付かずに相手を苦しめているのである。自分でいいことだと心底思っているのだけど、実は苦しめているのがポイントである。つまり「善」だと思ってやっている本人が全く自覚できない、気付けないというのが、最大の難しさなのである。自覚できた時点で、もう善魔ではなくなるからである。
この「よかれと思って」への警笛が『不親切教師のススメ』全編を通しての内容の本質である。それは、本当に善いことなのか。常に自問自答できれば良いのだが、先に述べた通り「善魔」は自覚できないのが厄介なのである。そこで、その自覚を促すために、外部からの情報、刺激が必要になる。
本を読んで「そんなこと全部わかっている」と思えて実行できているなら、それでいいのである。しかしながら、大切なことは、繰り返し繰り返し繰り返し述べていく必要がある。習慣化には、時間がかかるからである。
自治体規模で教育の常識を見直そうという姿勢は、大いに歓迎すべきことである。小さなうねりが、やがて大きな流れになっていくことを願う。
image by: Shutterstock.com