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“LGBT排斥主義者”は自分たちの情緒を守りたいだけ。ホンマでっか池田教授が断言する論理的理由

あらゆる多様性が尊重されるべき現代にあって、未だ存在するLGBT排斥主義者。もっともらしい理屈を並べ自らの主張を声高に叫ぶ彼らですが、その言い分は外来種排斥主義者の主張と同じく「論理的には底が抜けている」と言い切れるようです。今回のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』では生物学者でCX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの池田教授が、LGBT排斥主義者を「自分たちの情緒を守りたい」人々として、そのために他人の生き方に干渉することを「間違い」と断言しています。

※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです

文化的多様性の歴史的変遷について

前々回と前回に書いたように、LGBTをめぐる問題が社会を騒がせている。LGBTは性に関する多様性の話だが、そもそも多様性とは何か。なぜそれが問題となるのか。人間以外の生物にとっての多様性と、人間社会の多様性は何が同じで、何が違うのか、今回はそういった話をしてみたい。

生物学では、生物多様性というコトバが使われるが、もともとBiodiversity(生物多様性)はBiological diversityからlogicalを取って造ったコトバで、科学的なコトバというよりもむしろ政治的なコトバなのだ。したがって、自分たちの政治的な立場に都合がいいニュアンスで使われることが多いのだが、一応、3つのカテゴリーに分けて考えると理解し易い。

  1. 種多様性
  2. 遺伝的多様性
  3. 生態系多様性

である。

種多様性はある地域にどのくらいの種が棲息しているかという話で、種数が多ければ多いほど種多様性は高い。遺伝的多様性は同一種(あるいは同一個体群)の中で遺伝的なバリエーションがどのくらいあるかという話で、バリエーションが多ければ多いほど、遺伝的多様性は高い。クローンからなる種(あるいは個体群)はすべての個体の遺伝子組成が同じなので、遺伝的多様性は最小である。生態系多様性は、異なる生態系の種類組成の固有性の程度を示す指標だが、数値化することは難しい。

上記3つの中で、現生人類の生物多様性という観点から問題となるのは遺伝的多様性だけだが、人間にとっては上記の3つのカテゴリーに入らない文化的多様性の方が重要な問題となる。一方、遺伝的多様性を含めた3つの生物多様性は、人間が他の生物とどのように関わるべきかという観点からは大きな問題になり、論争が絶えない。

外来種排斥主義者は、外来種は在来種と競合して在来種を滅ぼす恐れがあるから、外来種の移入は禁止すべきと主張するが、少なくとも日本では、アメリカザリガニなどの一部の外来種を除けば、外来種による侵襲はそれほど大きくなく、外来種の移入によって、日本の生物相の種多様性は増大したわけで、種多様性の増加を善と捉える立場からは、外来種の移入を一律に排斥すべき理由はない。

ただ外来種が入ってくると、生態系の種類組成の固有性は減少するので、生態系多様性を維持するという観点からは、外来種の移入はマイナスということになる。また交配可能な外来種が入ってくると、在来個体群の遺伝的な固有性は減少するが、遺伝的多様性は増加するわけで、環境変動に対するリジリエンスは高まり、種の絶滅確率は減少する。外来種排斥主義者は同種の異所的個体群の交配を遺伝子汚染と称して忌避しているが、地域個体群の遺伝的固有性を守りたいのは外来種排斥主義者の願望であって、当の生物にとっては、自分たちの子孫の生存確率を上昇させることの方が重要で、その観点からは外来種との交配は善である。上述したことから明らかなように、外来種排斥主義者の主張は論理的には底が抜けていて、自分たちの情緒を守りたいために利用可能な理屈を恣意的に選んでいるだけのように思える。

LGBT排斥主義者も、自分たちの情緒を守りたいために、LGBTの生き方を制限しようとするので、その思考パターンは外来種排斥主義者と同型である。しかし、生物は外来種排斥主義者の思惑とは関係なくダイナミックに変化していく。LGBTの人たちもその人たちに一番快適な生き方をしたいわけで、それ以外の人たちが自分たちの情緒を守るために、他人の生き方に干渉するのは間違っている。

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さて、ここからは人類にとって最も喫緊の多様性である文化的多様性の歴史的変遷について述べたい。文化的多様性は同一種の異なる地域個体群が遺伝的変異に基づかないで、多少とも異なる生活様式を採ることであり、模倣とか学習とかの能力を持たない生物には見られない。

霊長類にはよく見られ、幸島のニホンザルのイモ洗いとか、チンパンジーのアリ(シロアリ)釣りとかがよく知られた例である。イモ洗いは、宮崎県の幸島で一頭の若いサルが、泥を落とすためにサツマイモを洗い始めたのをきっかけに、他のサルたちも真似をし始めて、幸島のサルたちの文化になった。チンパンジーは道具を使ってアリやシロアリを釣るが、釣りの方法や道具には、棲息域による変化が見られる。これも文化的多様性の例である。

約30万年前に出現した現生人類(ホモ・サピエンス)は農耕を発明する前までは基本的に狩猟採集生活を送り、バンドと呼ばれる血縁関係で結ばれる30人から多くて100人の集団で暮らしていた。ホモ・サピエンスがいつ言語を獲得したかは定かではないが、5万年くらい前にはすでに音声言語を使っていたという説が有力である。

農耕を始める少し前(1万年前より少し昔)には、バンドの成員は音声言語をコミュニケーションの有力な手段として使っていたであろう。言語は親から子に伝えられ、それ以外にも様々な生活様式(獲物の捕り方、道具の使い方、料理の仕方、死者の弔い方)などもバンドに特有の文化として伝承されたであろう。バンドが異なれば文化は多少違ったであろうが、バンドは気候条件やエサの多寡によって、離合集散を繰り返したと思われるので、それに伴い、バンドの文化も変遷したに違いない。

小麦や稲などの穀物の栽培は、栽培に適した土地があって初めて可能になる。栽培適地は限られているから、バンドの人たちが集まってきて多少大きな集落ができる。同一集落の人たちの間では、意思疎通がスムーズに行われないと不便なので、言語をはじめとした文化を共有することになり、同一文化に属する人数はバンドが集団の単位であった時代に比べると、桁違いに大きくなる。

集団が大きくなると、集団の秩序を保つ統治システムが必要になり、これは階級の分化をもたらし、支配階級と被支配階級を生み出すことになる。穀物の生産量が増えれば、集落の人数は増え、増えた人々は周辺の土地を開墾して、さらに生産量を増やそうとするだろう。しかし、生産量はその時々の天候や自然災害などの偶有性に左右されるため、穀物の取れ高が少ない年は、貯蔵してある穀物を食べ尽くすと、集落の人数が多いほど、飢餓に直面する人が増えるだろう。

このままでは餓死は免れないと考えた人たちは、周辺の集落に使者を送って、食べ物を融通してくれるようにお願いするかもしれないが、首尾良く行くとは限らない。最終手段は余所の裕福そうな集落を襲って、暴力を以て穀物を奪ってくることだ。戦争の始まりである。戦争は農耕を始めて、穀物を貯蔵することができるようになるまでは起こりようがなかったのだ──(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』2024年3月22日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)

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