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娘が好きすぎて嫁に出さなかった皇帝と、娘を利用して栄華を極めた日本の権力者

親であれば娘に愛情を持つものですが、「娘への愛情」のエピソードが強烈な歴史上の人物もいます。時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんは、週刊で配信中の『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』で今回、フランスのカール大帝と日本の藤原道長の対照的な「娘」に関する話を紹介しています。

娘への愛情、カール大帝と藤原道長

カール大帝はフランス語でシャルルマーニュの名で知られ、大帝と称されるにふさわしい功績を残しました。八世紀から九世紀初頭に在位したフランク王国の国王だったばかりか、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。

現代のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大な領土を築き、そのためヨーロッパの父とも呼ばれています。また、トランプのキングのモデルでもあり、ヨーロッパではキングの中のキングと見なされているのです。

そんな偉大なる大帝はキリスト教が禁じている配偶者以外との性行為、すなわち売春を禁止します。売春仲介業者には罰金を課し、売春行為をした女性を、「みだらな女」と呼んで広場で鞭打ちにしました。こうしてみると、英雄色を好むとは程遠い禁欲的な皇帝を想像しますが、彼は大変に好色、そして風変わりな愛情を発揮しました。

カール大帝は生涯を通じて五回結婚し、四人の第二夫人がいました。子供は二十人、彼は子煩悩で全ての子供を男女に関わらず側に置いて育てました。宮廷ばかりではなく、遠征先にも連れていったそうです。周りの延臣たちは家族の世話で大変だったことでしょう。一見して家族を大事にする良きお父さんですが、カール大帝は常識外れの家族愛、いや、家族独占欲に満ち溢れていたのです。通常、皇帝や国王は娘たちを敵対勢力、親交勢力、あるいは信頼する有力な家臣に嫁がせ、外交に活用します。

ところがカール大帝は娘たちを結婚させず、そのことを公言していました。一人も自分の側から離そうとしなかったのです。父親の過剰な愛に従い娘たちは結婚しませんでした。それでも恋愛は別です。

大帝は文化推進にも熱心でしたので宮廷は大勢の文化人が集う華やかなもので、娘たちは花を添える存在でした。当然、男女の仲に発展し、子供を産んだ娘もいました。それでも、大帝は見て見ぬふりをして結婚は認めなかったのです。

そんな娘たちへの溺愛ぶりは近親相姦の噂を広めます。家族を愛したカール大帝の帝国は死後、フランス、ドイツ、イタリアに分割されます。結婚できなかった大帝の娘たちが三国を産んだと言えるかもしれません。

娘を嫁に出さない、すなわち政略の道具にしなかったカール大帝に対し、藤原道長は娘をフル活用して朝廷を掌握、栄耀栄華を極めました。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」

という有名な和歌を詠みましたね。かのモテ男、光源氏のモデルとも言われ、御堂関白と称されました。ところが、彼は摂政や左大臣、太政大臣には就いていますが関白には就任していません。関白以上の権力者であったがゆえに、公家社会の頂に立つ関白だとみなされていたのでしょう。そんな絶対権力者だった道長は女性に恵まれました。女性というのは娘たちです。四人の娘が四人の天皇の皇后となり、三人の孫が天皇になったお陰で、道長は絶大な権勢を得ることができたのです。

当然、女性関係にも不自由することはなかったのですが、後の世の関白豊臣秀吉と比べるとぐっと控え目です。側室は置きましたが、秀吉のように目に留まった女は見境なくということはありませんでした。もっとも、清廉潔癖ではなく才女、紫式部にちょっかいをかけようとしたそうです。紫式部の寝間の戸を一晩中叩き続けたのですが、式部は戸を開けず、朝までじっとしていて、戸を開けていたらと思うとぞっとすると日記にしたためました。してみると、紫式部には振られ、式部は道長を嫌っていた、ということは光源氏のモデルではないのかもしれません。一晩中、好きな女の寝間の前で佇む権力者、いと哀しですね。

image by: Shutterstock.com

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歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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