枝野=立憲の本筋はどこにあるのか
このような野田に代表される立憲内部の保守反動派と、サンクチュアリはじめリベラル派は、もはや共存不能であり、キッパリと決別しなければならないのではないか。
なぜなら、2017年秋、蓮舫の後を継いだ前原誠司代表が突如として小池百合子の希望の党に合流しようという解党路線を提起、あれよあれよという展開の中で、かろうじて枝野幸男が踏み止まって立ち上げたのが「立憲民主党」である。
私は当時、毎日新聞「夕刊ワイド」欄に頼まれて、阿佐ヶ谷駅前と新宿西口での枝野の演説に立ち会ったが、枝野が「私がたった1人で立憲民主党を立ち上げましたぁぁ!」と声を張り上げると、取り囲んだ聴衆から「ありがとぉぉーっ!」という絶叫コールが湧き起こった。見れば、その主力は2015年安保法制反対の国会デモに連日参加したであろうシニア世代。彼らは民進党がなくなったらもう投票する政党がなくなってしまうと絶望しかかっていて、枝野が救いの神に見えたのだ。
その意味で、15年安保法制反対デモと17年立憲立ち上げは直結していて、そこを外したら立憲の存在意義はゼロとは言わないが、どこを根っこに戦って行くのかの原点を失ってしまう。そこに、野田派のほか国民民主や無所属からのバラバラとした合流組との間の大きな矛盾が存在する。
毛沢東『矛盾論』を俟つまでもなく、矛盾には敵対的と非敵対的とがある。敵対的とは和解不能ということで、議論するだけ無駄で、組織としては分裂に行きつかざるを得ない。出来るだけそうなることを避け、あくまでも組織の内部で、お互いの主張を尊重しつつ合意可能な部分は認め合い、共存をすることを追求するのが非敵対的矛盾で、これが組織運営の根本である。そうは言っても、何事においても事を荒立てずに穏便に過ごそうとするのは逆に最悪で、むしろ積極的に議論を盛んにして、どこで一致出来てどこでは一致出来ないのかを常に顕在化させていく「熟議」の術に長けることが、その組織を活性化させるコツである。これが、物事を“内部矛盾”として処理するということである。
そういう観点からすると、リベラル派の大きな塊であるデモクラッツの皆さんはおとなしすぎる。事あるごとに日々声を挙げ、記者会見を開き、公然と執行部を批判し、「我々はこう考える」」「我々であればこうする」という高度の知的オルタナティブを提起し続けなければならない。
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