叱る、怒る、ほめる。子どもの教育をするうえで、きちんと大人が考えなければいけない問題です。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、今回オンラインでの話し合いで気づいた、この3つの要素の使い方について語っています。
ほめる時、叱る時、怒る時
先の日曜日早朝にあった「学級づくり修養会HOPE」オンラインでの気付き。
叱るとほめるを分析する、というのが今回のテーマだった。みんなで話し合っている中で、様々な気付きがあったのでシェアする。
まず前提として、叱るとほめるは、表現こそ違うが同根である。相手が「良くなる」ことを願い、ねらって行われるべきものである。
これらがないと、社会的な経験のない子どもたちは何が良くて何が悪いのか判断がつかない。だから、両方必要ということになる。つまりこれらの行為は、そのまま価値観の形成につながる。
叱るだけでなく、怒ることがある。しかしこれは、多くの先人が「怒ったら負け」「怒らないことが人格向上」と言っているし、医学の面からも「怒ると脳内から興奮物質が出て、有毒」という話もある。
つまり、何があっても怒らない方がいいのだ、というのが早合点な結論であった。ここが、今回の話合いで、根本的に間違っていた点だと気付いた。
個人の人生として見た時は、断然怒らない方がいい。悠々自適に暮らしていく中で、怒ることは害悪でしかない。聖人君子や仙人のような、澄み切った気持ちで暮らすのが幸せだろう。周りの人にとっても、そのような人は有難い存在である。全くその通りである。
しかし、これがこと教える立場となれば、話が違う。先の述べたように「学校の先生」は、子どもにとって、外の社会の入り口、大人のロールモデルである。その大人を見て、社会を学ぶ。特に、自分が直接関わる、立場や年齢がずっと上の人との接し方を学ぶ。
(ちなみに、横の関係はクラスメイトや友人から学ぶ。ちょっとした上下のある人間関係は先輩後輩から学ぶ。)
やるべきことをやらないで、先生に叱られた。友だちをいじめたり馬鹿にして喜んでいたら、先生が本気で怒った。目に余る失礼な言動や態度を取って叱られたが、無視して続けていたらついに怒られた。
これらの経験を通して、「これは社会的にまずい行為なのだ」ということを学ぶ。やるべきことはやらねばならない。人を馬鹿にしてはいけない。一度は許された失敗も、何度も繰り返すことで許されなくなる。
優しく教えて諭してわかる子どもも勿論いる。一方で、そうではない子どもも勿論いるということである。家ではOKなのに、と不満に思う子どももいるだろうが、それも学びである。
学校に限らず、親という立場もそうである。いつでも子どもを自由にして、穏やかで全く怒らない親。理想的な感じがするかもしれない。
しかし、外の社会の大人が皆そうであるかといえば、明確に「NO」である。世の中には気の短い人もいるし、ふざけた態度を取ったらどんな目に遭うかわからない。何をしても怒られることのない家庭の場合、通常以上に外の世界とのギャップに苦しむことになる。つい怒りすぎてしまって自己嫌悪に陥るのは親の常だが、人間を学ぶには丁度いいモデルであるともいえる。
やたらと私的で感情的なのは確かにダメである。以前にも書いたが、自分自身の見栄や世間体やプライドの為に怒鳴られたら堪らない。「毒親」とは嫌な言葉だが、そういうやりすぎな人が存在するのも確かである。
しかしながら、大事な子どもが人としての道を踏み外した行為に対しては、大人が怒りをもって示す必要がある。
どこで読んだか、内容含めてうろ覚えだが、次のような話がある。
運動会の騎馬戦で、ある子どもが兜を取られて負けた。競技終了後に、その子が腹いせに後ろから相手の兜をとって囃し立てたという。しかしその後、普段はとても穏やかな母親が、人前で涙を流して声を荒げて怒った。「負けたことはいい。母はお前をそのような卑怯者に育てた覚えはないぞよ」
昭和の話ではあるが、確かにこのような時こそ、大人が怒りを示すべき時である。我が子を、決して卑怯者にしてはならない。このような時にこのような行動をとる子どもに対する時は、冷静に諭してもダメである。怒りという感情を伴って叱るべき時である。(怒ると叱るは別ベクトルの話であり、同時に発露、別々に発露、両方有り得る。)その子どもは母親のその剣幕に猛省し、その後の人生では卑怯をしなくなったという。
子育ての第一義責任である親の場合と、教師の場合とでは当然その発露の仕方や場面は異なる。しかしながら、本質的な部分では同じである。
普段から、怒ることは抑えめを意識した方がいい。ただでさえ怒りの感情は湧きやすいのだから、抑えめにしても出るべき時は出てしまう。(全く怒りの感情が湧かないという人も稀にいるので、その場合は別で考えて頂きたい。)例えば「勉強ができない」なんてことで怒られていたら、子どももたまったものではない。
しかしながら、一般の人がこれは不愉快になる、怒るだろうという場面では、怒られる方がよい。そうでないと、社会に出た時にまずいことになる。人を傷つけて喜ぶ、馬鹿にした態度や言葉遣いで接するなどは、ここで教えないと他はない。
また、ごみをそこら中に散らかしたり、他人が不快になるいたずらをして喜んだりするような、多くの他者に迷惑が及ぶ行為もきちんと叱るべきである。
子どもには一時的な快適環境を与えるよりも、人生を逞しく生き抜く力をつけてやる必要がある。それが時に子どもに「不親切だ」と思われてもである。
いつも紹介しているが、『不親切教師のススメ』の真意は、子どもの長い人生を見据えた、真の親切である。
怒ってはいけないということはない。人間と人間が共に学ぶ場に感情の交流がない方が不自然である。
ただし、その刀を抜くべきタイミングかどうかを考えること。圧倒的に力も強く上の立場にいる自覚をもち、第三者の視点も常に忘れないこと。(怒る時は、幽体離脱して自分ごと俯瞰しているイメージがよい。怒る自分を見ても、あまり格好の良いものではないからである。)
今は「叱らない、怒らない」に世論が傾きすぎた。その弊害について、身に染みている人も多いはずである。
大人として、子どもに対しとるべき態度をとろう。批判を怖がっている大人から学べることはない。目の前の子どものことを本当に考えて教育にあたっていきたい。
image by: Shutterstock.com