東日本大震災から14年が経って気づく、私の日常から消えてしまっていた「二文字」

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1万5,000人以上の命を奪い、遺された人々の生活にも甚大な被害をもたらした東日本大震災。あのとき、そして14年の歳月が過ぎた今、私たちは被災地に対して何を思い、何をすることができたでしょうか。今回のメルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』では健康社会学者の河合さんが、震災から半年後にボランティアのため被災地を訪れたことを振り返りながら、自身が感じた「うしろめたさ」の理由と、自分の日常から「漢字ふた文字」のことが消えていたことに気づいた思いを綴っています。

プロフィール河合薫かわいかおる
健康社会学者(Ph.D.,保健学)、気象予報士。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(Ph.D)。ANA国際線CAを経たのち、気象予報士として「ニュースステーション」などに出演。2007年に博士号(Ph.D)取得後は、産業ストレスを専門に調査研究を進めている。主な著書に、同メルマガの連載を元にした『他人をバカにしたがる男たち』(日経プレミアムシリーズ)など多数。

東日本大震災から14年目のうしろめたさ

東日本大震災から14年が経ちました。

2011年5月、朝日新聞の一人の記者が、岩手県の釜石市で両親を津波で失い、祖母と暮らす女子高校生に「どうやって立ち直ったの」と尋ねると、「まだ、立ち直ってなんかないよ」と答え、中学生の弟はうつむいて涙ぐんだ。

著書『駐在記者発 大槌町震災からの365日』で「ひどい質問だった」と振り返るその記者は、今は大船渡の山火事の現場で、復興とは何かを問い続けていると、朝日新聞の天声人語に書かれていました(3月11日付朝刊)。

復興・・・。本当に何なのだろうとつくづく思います。

私が被災地に向かったのは、“あの日“から半年経った11年10月。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区でした。

津波の災禍に見舞われた土地には、広大な更地が広がり、手つかずの状態になっていました。更地なのはがれきが撤去されたからではなく、津波に根こそぎもっていかれたからだと現地の人が説明してくれました。

中でも甚大な被害を受けたのが、閖上中学校です。校舎はその地域では最も高層の建物でしたが、折しも当日は卒業式。午前中で行事が終わり、地震が起きた時に子供たちは学校を後にしていました。

そこに津波が発生し、154人の生徒のうち14人が亡くなってしまったのです。通常の下校時刻だったら「子供たちを守ることができた」と自責の念にかられる先生たち。地域の大人たちは「名取はリアス式海岸ではないので、名取には津波は来ないと誰もが信じていた。それが被害を大きくしてしまった」と、14人の子供たちの命が奪われてしまったことを悔いていました。

大人たちの話を聞いてから数ヶ月度。その際お世話になった方から1通のメールが届きます(以下)。

「12年3月に卒業式を仮設の校舎で迎えた子供たちが『名取の新しい街を作ろう!』と立ち上がってくれました。私たちも頑張らなきゃです!」

自分たちの手で、自分たちが大好きだった名取にまた街を作りたいと大きな一歩を踏み出した“若い力“が、前を向けなかった大人たちの背中を押したのです。

私は11年の年末から、石巻、雄勝、女川の仮設を周り、13年には福島県川内村のお手伝いを手弁当でやらせていただきましたが、それは自分自身へのうしろめたさからでした。

被災地に向かうときの「あれやって、これやって、こんな話をして、みなさんの役に立ちとう!」という熱い思いが、現地に立つと、うしろめたさに変わる。東京で何事もなかったかのような“日常“を送っている自分が、とにもかくにもうしろめたくて。「被災地のため」という美しい言葉の裏には、「自分のため」という実に勝手な心の動きが確実に存在していたのです。

そして今、14年の月日が経ち、「復興」という二文字が、私の日常から消えていることに気づいた。復興が・・・他人事になってしまったのです。

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