社会保障の保険料を下げるために高齢者の尊厳死を法制化すると語った国民民主党の玉木雄一郎氏。彼について、メルマガ『佐高信の筆刀両断』の著者で辛口評論家として知られる佐高さんは「小型ヒトラーだ」とバッサリ。玉木氏が読むべき『楢山節考』の内容を紹介しながら、政治家失格であると語ります。
政治家失格の玉木雄一郎
『玉木、立花、斎藤、石丸の正体』(旬報社)を出し、玉木雄一郎は小型ヒトラーで、立花孝志は小型ゲッペルスではないかと指摘したが、立花は「我々が狙っているのは、普段は選挙に行かないような50%の人々だ」と言っている。
そして、池内紀著『ヒトラーの時代』(中公新書)によれば、「ナチスの膨張については、つねづね、ドイツ経済の破綻と社会不安が地滑り的な勝利をもたらしたと言われるが、しかし、民主勢力の支持者はほとんど奪っていない」という。
つまり、50%のいわゆる浮動票をナチスがさらっていったわけである。
統一教会支持でトランプと繋がる玉木は完全にその層をねらって、医療費を抑えるためにも高齢者は尊厳死を選ぶことが社会のためになるなどと言っている。
玉木は深沢七郎の『楢山節考』(新潮文庫)など読んだことがないのだろう。
70歳になったら、老人は掟によって楢山に捨てられる。母親思いの息子の辰平は、身を切られるような辛さを味わいながら、母親のおりんを背負って楢山を登って行く。
そして、置いて帰って来ようとしたら、雪が降って来た。雪が降れば、あまり苦しまずに死ねる。それで辰平は、引き返してはならないし、物を言ってもならないという誓いを破って叫んでしまう。
「おっかあ、雪が降ってきたよう」
それに対して、おりんは静かに手を振って、帰れ帰れと合図する。
この作品が哀切なまでに我々の胸を打つのは、老人が逃れられない老いと死をはっきりと意識し、若い人への世代交代のために身を引こうとしているからである。
往生際のよさが、人間の定めを残酷にもくっきりと浮かび上がらせる。
同じく棄老にまつわるこんな話もある。
ある婆さんが、息子に背負われて山に捨てられに行く道すがら、手を伸ばしては木の枝をとり、これを短く折って路上に落としている。
それを見て息子は、婆さんが帰るための道しるべをつくっているなと思い、
「婆さん、帰ろうと思ってもダメだよ」
と言う。すると婆さんは、
「帰りゃせんよ。ただ、お前が道に迷わんようにと思ってな」
と答えるのである。
ずいぶん前に来日したアインシュタインがこの話を聞いて、いたく感動し、「日本に来て神を見た」と言ったという。
もちろん、フジテレビの日枝久や政治家の麻生太郎のように醜悪極まりない老害の政財界人もいる。
しかし、票の獲得のためにだけ世代間対立を煽るような玉木は政治家失格だろう。
玉木はおりん婆さんのような老人にはなれないし、また、老人の心情を理解することもできない。
そんな玉木がもてはやされていいのか。
老人の心情がわからないということは人間がわからないということである。
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