職場の同僚を「困った人」として扱い、「そのような人にならない」ための対処法を指南する内容のビジネス書がSNSで大炎上しました。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』の著者で文筆家の倉下忠憲さんは、「困った人」と「困らせている人」を線引きすることの「危うさ」について丁寧に解説しています。
できる人のノウハウの刃
とあるビジネス書が炎上していました。具体的な書名は挙げませんが、職場の同僚を「困った人」として扱い、その対処方法を指南する内容だと聞いています。
実際に中身は読んでいないので、内容について批判することは控えます。それでも一つ考えてみたいのは、「困った人」と「困らされている人」という線引きの危うさです。
■困った人
「困った人」というのは、おそらく「私を困らせている人」という意味でしょう。ビジネスの現場で言えば、自分の仕事がうまく進まない原因になっている人、というニュアンスだと思います。
もちろん、はじめから反抗的な態度の社員がいるとしたら、そうした人に困らされることはあるでしょう。しかし、人にはそれぞれ特性があり、その特性が与えられた職務や環境にそぐわないことで起きている不都合であればどうでしょうか。
そうした不都合によって、自分が困ることが起こるにしても、おそらくその人もまた何かしらの形で困っているのではないでしょうか。
つまり「困った人」は「困っている人」でもあるわけです。まず、この視点がスタートです。
■困らされている自分
さて、「困らされている自分」はどうでしょうか。その人は万能で、職場に対して完璧な適応をしているのでしょうか。誰にも迷惑をかけず、期待される成果を完璧に出せているのでしょうか。
そんなことはないでしょう。人間とは不完全な存在であり、足りない部分はいくらでも出てきます。また、ある時点まで完璧そうに見えても、その完璧さが崩れることは十分にありえます。
だとしたら、「困らされている自分」もまた、別の誰かにとっての「困った人」になる可能性があるのです。
■線引きの問題
「困った人」と「困らされている人」に線を引き、読者はこちら側の人であるという認識を育むことは、上記のような可能性を見落とすことにつながりかねません。
そうなると、「困った人」と呼称されてしまう人たちが抱えている問題を真摯なものとして受け取れなくなります。実際、炎上した本では、そうした人たちを人間以外の動物にたとえているのです。極端なことを言えば、「異物」として扱っているのです。
そうした人たちの内面に寄り添おうとするのではなく、「問題」が起きないようにトリートすればいいだろう、という考えが感じられます。
「でも、その本ではそうした人たちをうまくやっていく方法を紹介しているんだ」
という反論があるかもしれません。たしかにそういう方法を見つけることは大切でしょう。
しかし、です。
「困らされている自分」もまた、誰かにとっての「困った人」になる可能性の方はどうでしょうか。
私が一番懸念するのは、「困った人」を異物として扱うことで、そのような扱いをしてしまっている当人が周りの人に頼れなくなってしまうことです。
イメージしてみてください。完璧な仕事を維持しなければ、自分が異物として扱っている「困った人」に自分がなってしまうと考えているとき、自分の弱さを人にさらけ出せるでしょうか。きっと無理でしょう。
元気いっぱいのときはそんな懸念など取るに足らない話に思えます。でも、それがいつまで続くかはわかりません。いつだって、誰かが誰かに「迷惑」をかけることはあるし、それを助け合うのが組織というものである、という認識を育むほうが長期的に見て働きやすい環境になるのではないでしょうか。
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